死んだ少年
『死んだ少年』
老人は思わず声を上げた。
「おぉい、助けてくれんかね、足を折って動けんのだ!」
山中、崖の下。
丸二日、彼は動けず途方に暮れていた。
野犬の足音に震えあがった彼は、一睡もしていない。
野犬は骨まで残さず食べる。空腹より恐怖が堪えた。
崖の上には、山を下る近道がある。ただし、危険で、滅多に人が通らない。
彼は、世間でそれなりの功をなしている。悪名も同程度。
だがそんなもの、この状態では何の意味もなかった。
ここで終わりか、と諦めかけていたのは、つい先刻までの話だ。
老人の耳は先ほど、崖の上から届いた何者かの会話を拾った。
助けを呼んだのは、反射―――――直後、青ざめる。
先ほど届いた声は、ずいぶん密やかなものだった。
他者の耳目を避けている? この、森閑とした山中で?
しかも、こんな場所を通る人物だ。
老人は直感した。相手には、後ろ暗い事情がある。
自身を棚上げし、老人は口ごもった。刹那。
「ほう? …らしいが」
背後で、感情の乏しい男の声が上がった。
野生の獣が覗き込んでいる。そんな危機感に、芯から鳥肌が立った。
次いで、
「義理はない」
凛とした女性の声がぴしゃりと空間を叩く。
こんな場所に、女?
驚愕に老人は振り向き、―――――いっとき我を失った。
足音もなく、いつそこに立っていたのか。
よく似た面立ちの男女二人がそこにいた。問題は、その容姿だ。
銀髪。視界にちりちり焦げ付く金の瞳。陽光の下、ほのかに輝く白い肌。
青年は短髪。体格がよく、巌じみた、刻みつけるような厳しさがある。
女性は、長く豊かな髪も相まって、水流のようにしなやかだ。
彼女には、宝石の果実めいた、熟した麗しさがある。
それらすべてが、凍りつくような端正さを構成していた。
先ほどとは別の意味で皮膚が泡立つ。
これは本当に、同じ人間か。
老人を見おろし、いや、見くだし、青年は言った。
「そう。第一、我らは追われる身」
「一刻も早く環状都市へ入らねば」
二人は情なく頷き合う。立ち去る意志も気配も隠さない。
老人は必死で喰い下がった。
「偶然だな、わしの行き先も環状都市だ」
一瞬でも声を上げるのが遅れたなら、彼は確実に見捨てられていた。
そう確信させる酷薄な眼差しを老人に向け、不意に女は振り向く。
「どうなさる、若さま」
―――――まだ誰かいるのか。
だが老人には、主と呼ばれた者の姿は、影も見えていない。
目前の二人に意識を奪われ過ぎるのだ。
「問答の時間が惜しい」
落ち着き払った第三者の声が上がった。老人がどうにか、そちらへ目を向ける寸前、
「追手はすぐそこだ。…彼に目隠しを」
老人は乱雑に目元を覆われる。
子供とも老人ともつかない三人目の声が、冷静に続けた。
「これでいい。あなたを環状都市まで同道しよう」
「それでなぜ目隠しの必要が…あんたら、人相書きでも出回ってるのか?」
老人の声がきつくなったのも無理はない。
犯罪の根城にでも連れていかれるのかと警戒した彼の態度に、最初の男が冷たく応じた。
「御老体の心臓に対する配慮だ」
「?」
誰かがくすりと笑う。
三人目の声が、口早に言った。
「連れていくのは構わないが、二つ条件がある。別れるまで目隠しを外さないこと―――――死んだら自業自得と諦めること」
不穏を通り過ぎて不吉な条件だ。
考えさせてくれ。と言う間もない。
前触れなく、老人は腰帯ごと持ち上げられた。
骨を折っているのだ。老人は苦悶の悲鳴を上げる。
これは骨折した老人ではなく荷物だ、と割り切ったか、三人目の声が敢然と告げた。
「よし、では―――――逃げるぞ」
刹那。
「お、おおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおぉぉっ!!?」
老人の全身をすさまじい圧力が襲った。
驚愕の声が、腹の底からこみあげる。
竜巻に、きりもみされる感覚とでもいおうか。
この、肉が全部削げ落ち骨だけになるような圧迫感が、どのような状況で生じているのか。
目隠しされた老人には想像もつかない。
手が自由ならこのような目隠していどすぐ外せる。
と言ったこすっからい思惑すら完全に脳裏から吹き飛んでいた。
それは幸いだったろう。
老人の目隠しの外の現実は、常軌を逸していた。
陽光の下、輝く銀毛が映える二頭の虎が悠然と駆けている。
その片方が、鋭い牙の端に老人の腰帯を引っかけていた。
この二頭の虎が、先程の男女が変化した姿と知れば、老人は失神していたかもしれない。
片方の虎の背に、小柄な人影が見えた。
彼こそが、三人目の声の主だ。
子供だった。まだほんの十歳ていど。
癖のある黒髪。黒瞳と勘違いしやすい血を煮詰めたような深紅の瞳。
容姿は、平凡―――――ただ、幼い顔立ちには、似つかわしくない老成した物憂い表情が浮かんでいる。
彼等は、あっという間に山を抜けた。
山裾の森を突っ切る――――勢いもそのままに、はろばろとした草原に飛び出す。
遅れて、闇の塊めいた人影が、五、六、彼等に続いて草の海に突っ込んだ。
丈高い草は疾走する彼等の姿を覆い隠す。
ただ、草原の中、老人の悲鳴が尾を引いた。
その声が、彼等の居所を騒がしく喧伝する。
少年を乗せた虎が、うるさい、と呟く。
少年は、優雅に蛇行する虎の背で、帯から下げていた短剣を引き抜いた。
シャリン、鋼が涼しげな音を立てる。腕が撓った。
―――――間髪入れず、ギン、と刃が少年の顔の横で火花を散らせる。
直後、弾かれた凶器が失速。
少年の長衣を掠め、大地へ墜落した。
彼は振り向きもしない。鋭く告げた。
「見えた。環状都市だ」
一見、天然の城塞と言えなくもない町並みがみるみる近づいてくる。
環状都市のことを、伝承はこう語る。
太古、最も巨大だった山に、星の欠片が天から降り落ちた場所にできた大都市。
ひとつの山を、複数の山が取り囲んだような地形だ。
見上げた少年は、目を細める。
合間に、一本の矢が風を巻いて少年の真横をすり抜けた。
動じず彼は、虎の背の上で身を低くする。
「回避は考えなくていい。突っ切れ!」
たちまち、虎が一陣の風と化した。老人の絶叫が高まる。
だが、追手との距離が次第に開きはじめた。
また矢が飛来―――――だが届く前に失速、草に絡まってどこかに埋もれる。
少年と同じく環状都市を見上げた虎の片方が尋ねた。
「ここから、門は見えない。反対側に出たな。どうする」
少年は長く考え込まなかった。
「止まるな、風を起こす」
「では」
虎たちは、さらに四肢へ力をこめる。
ボロ布のようにはためく老人は、さすがに言葉を聞き咎めた。
慣れたのか、余裕ができたのか。
「か、かぜ、…起こすって、あんた、まさか」
苦しげに、老人は一度咳をこぼした。
そのときには、環状都市の外壁たる岩壁が眼前に迫っている。
「方術士…っ」
言葉は途中で、風にちぎれた。
跳躍。たちまち、進行方向が移行―――――水平から垂直へ。
虎は、ただ、駆ける、駆ける、駆ける。
―――――大地を駆けるのと寸分たがわぬ勢いで、ぐんぐん外壁を駆け登る。
だが、見るものが見れば言っただろう。
これは、方術ではない。見ろ、満ちているものは、神気だ、と。
途中、少年が後ろを振り向いた。とたん、表情が険しくなる。
舌打ちをこぼした。
「…しつこい」
全身黒づくめ、白い無貌の仮面を被った相手が、手足を蜘蛛のように使い、壁を這い上っている。
不幸中の幸いは、両手がふさがっているため、飛び道具を使えないことだ。
「逃げたい」
投げやりに呟くなり、少年は苦い顔になった。
今まさに、逃亡中だ。
彼は虎たちに意識を向けた。
「人造生物っていうのは厄介だな―――――悪いが、もう少し踏ん張ってくれ」
虎たちの巨躯に潜む体力は無尽蔵に見える。
それでも、基本は生き物だ。限界がある。
少し息が切れているのを、少年は見抜いていた。
思う間に、彼等は外壁の上に躍りあがる。
刹那、さ、と風が髪を掻きあげて吹きぬけた。
次いで、少年の目に、万色の散った壮大な光景が映り込む。
万色と見えたのは、屋根。白い壁。看板。
ごちゃまぜのようで不思議と均整のとれた街並み。
立ち昇る煙。声。どこからか漂う、食べ物のにおい。―――――活気あふれる人の気配。
少年の目が見開かれた。一瞬、星が入ったように輝く。
とたん、たのしげに笑顔がはじけた。
だが、そんな幼い表情は、刹那に消える。
くるり、刃を回した。短剣を鞘におさめる。
少年は近くの屋根を指し示した。
「飛び移れ」
間髪入れず、虎たちが飛翔―――――少年は老人を横目にした。告げる。
「もう環状都市の中だよ」
虎が駆ける角度が変わった。建物伝いに下へ。途中、
「そこなら落ちても死なない。人も呼べる」
近くの屋根を示し、虎の片方が言うのに、老人は慌てて声を上げた。
「待ってくれ!」
「待てない」
後ろを振り向くついでに、少年は応じる。
「せっかちな男だな、礼をしたいだけだ」
老人の物言いに、少年は口元に一瞬笑みを浮かべた。
察したのだ。老人は誤解している。
今応じた相手が、子供ではなく、大人だと。
誤解を解く間はない。必要もなかった。
少年は虎に目線で指示する。
虎は老人をその場で下ろした。
拍子に尻を打った老人は立ち去る気配に、声を張る。
「わしはサヤン・グリフ! 手助けしてもらって礼もなしでは妻に叱られる」
無事帰れたなら、と心の中で付け足し、老人は息も絶え絶えに続けた。
「あ、あんた方の名は?」
折った骨の痛みを奥歯で噛み殺しつつの問いかけに、何を思ったか、虎たちが応じた。
「クロガネ」
「シロガネ」
未だ目隠しを外せない老人の脳裏には、先程の青年と女性の姿があるはずだ。
それきり身を翻し、駆け出した虎の背の上で少年が苦笑する。
「俺は常磐仁、―――――いや、ジン・トキワ」
直後、彼等の距離はいっきに開く。
荷物がなくなったのだ。
より一層身軽に、虎たちは巨躯を躍らせた。
彼等のあとを、影のように人造生物が追う。
その一体が身近に肉薄―――――仁は、迫る人造生物を押し返すように掌を突き出した。
直後、人造生物の顎下を、何かが斜めに貫通―――――しかしそれは、仁の力ではない。
「…弓?」
項から顎へ抜けたそれは、勢いをひとつも殺さず、蒼穹高く飛び去った。
仁は呆気に取られる。
なんて凄絶な技だろう。
咄嗟に周囲を見渡す。射手はどこに。だが、人影一つ見えない。
「若さま、地上で人が騒ぎ始めている」
「警邏隊だろう」
ともすると、すさまじいような弓勢を見せた射手も、警邏隊の者かもしれない。
とはいえ、今、気を散らしている暇はなかった。
目的地は、目の前だ。
上着の袷から、仁はちいさな袋を取り出す。
中身は石だ。鼓動するように、赤い光を明滅させていた。
掌に握り込む。投げ捨てた袋が、後ろの彼方に飛んで行った。
仁は駆ける虎の背の上に立ちあがる。とたん。
森の木々のように林立していた建物が不意に消失―――――街中の落とし穴のような空間が現れる。
完全に建物の影になった地面に敷かれているのは、石畳。
近くに仁たちがさしかかった刹那、石畳が淡い白光を放った。
複雑な紋様が次々描き出され、一つ一つが歯車のように重なり宙に浮き始める。
「あとは手筈通りに。…散れ」
仁は迷うことなく、虎の背から飛び降りた。
間髪入れず、二頭の虎が左右に散る。
仁の身体が石畳に近づくにつれ、掌に握り込んだものの輝きが増した。
その、途中。
「…っぐ!」
人造生物の一体が、とうとう、仁の落下に追いつく。
腕が首に絡み付いた。巻き付き、締め上げる。咽頭を潰す勢いで。
仁がいっとき、苦痛に喘いだ刹那。
無貌の面が耳元に近づいた。囁く。
『―――――仲間をどこへやった』
地底から響いてくるような声だ。鼓膜を不快に刺す。
喋っているのは、この、人造生物ではない。操っている術者だ。
仁は一度、目を閉じる。
にやり、笑った。
さて、演じよう。
テツ・フェリックス。君を。…そう。
今から『俺』は、常磐仁じゃない。
今から『僕』は、テツ・フェリックスだ。
問題ない。だって、そうだろう。
この肉体は、紛れもなく、テツ・フェリックスのものなんだから!
記憶もある。君のことなら、よく知ってるよ。
なあ、テツ・フェリックス。君ならこんな時、―――――どうする?
直後の彼の行動には、なんの前触れもなかった。
ぐいと人造生物の面に顔を近づける。
苦しい呼吸に頓着もせず、囁いた。不敵に。
「…さぁ? どこだっけなぁ」
その時には、常磐仁、と名乗った時の沈着さは、幻のようにかき消えていた。
代わりに、別人じみて狂的な、乾いた明るさがにじむ。
声に、表情に、両目に。
「知りたきゃ、請いなよ。這いつくばってさぁ!」
テツは腕を振り上げた。
赤い石をもった拳を、人造生物の額を割り開く強さで叩きつける。
―――――一度、二度、三度。
自身の腕を折ろうが、拳が砕けようが構わないといった殴り方だ。
容赦がない、というより自滅的。
よし、と意識の片隅で、仁が頷く。
これが、テツ・フェリックスだ。
「けど、悪いね、機会はあげない」
殴りながら楽しげに、テツは声を上げた。
「ほら、もう逃げ切れる…僕の勝ちだ!」
刹那、輝く紋様の中に、テツと人造生物の身体が飛び込んだ。
「じゃぁ、はじめようか。テツ・フェリックスが死ななかった世界を」
視界がまっしろに染め抜かれる。
あまりのまばゆさに、テツは一瞬目を固く閉じた。
直後、喉の縛めが緩んだ。
同時に、身近で大きな風船が割れる感覚。
人造生物の肉体がはじけ飛んだのだ。
どろり、頬を流れ落ちる液体の感覚に、テツは顔をしかめた。
片手で乱暴に拭う。目を開けた。
一瞬、眩暈を覚える。
視界を満たす光景が、瞬きの内に変わっていたからだ。
行き交う子供たちが着ているのは、揃いの白い服。
常磐仁の記憶から見れば、見慣れた『学校の制服』だ。
彼等は、突如転移の門に現れたテツの姿に、ギョッと息を引いた。
それもそのはず、テツは人造生物の体液をひっかぶっている。
ちなみに、あれほど締めあげられたのだ。
首にあざが残っていないはずはない。
頬を拭った手の甲を見れば、黒と白のまだらの液体が見えた。
鼻を突くのは、墨のようなにおい。
生徒たちの合間を縫って、大人が何人か駆けてくるのが見える。
テツ・フェリックスは、惨めに濡れそぼって迎えを待つ―――――わけがない。
テツは胸を張った。
転移の門から、堂々と一歩を踏み出す。
ゆっくり、周囲を見渡した。
「僕はテツ・フェリックス」
身を証するものは、何ももっていない。
だが、転移の門を潜り抜け、敷地内に至った―――――それが、身の証だ。
今、掌の中で崩れ落ちていく赤い石。これが門の鍵。
厳重に慎重に配布されるこの石こそ、身分証明となる。
鍵をもたず、門に飛び込んだものは、相応の報いを受ける。あの人造生物のように。
テツは声を張った。
「ヤト学園の責任者はどこかな」
真っ先にやってきた細い壮年の男が、神経質そうな声で言う。
「使用された鍵は、フェリックス藩王家嫡男、テツ・フェリックスのものに相違ありません。それは認めましょう。
ですが、どういうことでしょうね」
くすんだ金髪は長く、後ろにまとめてある。
身なりはきちんとしているが、肌色の悪さのせいか、病的な印象が強い。
濃紺の瞳には、疑いの色が隠すことなく浮かんでいる。
彼は厳しく告げた。
「二日前、彼は死んだ」