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金糸雀小唄が家に着いたころには、日はすっかり暮れていた。十九時三十分。これから夕食なのだと言えば、少々遅いくらいかもしれない。もっとも一人暮らしの彼にとって、夕食の時間など意に介することでもない小さなことであるが。真っ暗な我が家に自ら明かりを灯し、夕餉の支度をする。それが彼の日常――だったはずだ。
だったはずなのだが、これは一体どういうことだろうか?
見慣れた我が家の玄関前で、金糸雀小唄は頭を捻った。不思議な光景がそこにあったのだ。
家の中から、明かりが漏れている。
当然心当たりはない。不審を覚えながらもドアノブに手をかけてみると、こちらにはしっかりと施錠がなされていた。
「うーん……」
唸りをもらしてうなじの辺りを撫でる。風馬に噛まれるまでチリチリと滲んでいた痒みは今はない。と、そこで小唄はハッとして固まった。
自宅へと足を踏み入れれば、やはりつけた覚えのない明かりが廊下を照らしていた。しかも、どこからともなくいい匂いまで漂っている。
両親から引き継いだ一軒家、一人で住むには広すぎるこの家に食事の香りが立ち込めているなど何年ぶりのことだろうか。
玄関先で過ぎった予感を確信へと進化させながら、小唄は住み慣れた家の廊下を歩きぬける。香りの発信源たるダイニングの扉へとたどり着くと、これまたつけた覚えのない明かりが煌々と漏れていた。そのドアノブを握り、捻る。
がちゃり。
「おや小唄さん。お帰りなさいませ」
ばたん。
即時開けたドアを閉める金糸雀小唄。
――待った。ちょっと待った。
なんとなくあっち関係の人物が進入していることは予測済みであったが、これは想定の範囲外だ。風馬にしろまひるにしろ桜にしろ、ファーストコンタクト時から一般常識を心得ていたはずだ。ところがである。今回の珍客のあれはなんだ?
じっと考えること数秒、小唄はもう一度ダイニングの扉を開ける決意を固めた。
がちゃり。
「あ、お帰りなさいませ小唄さん」
「う、うん。ただいま」
目の前に雪女かと見紛うほどに白い肌の美少女が三つ指をついている。鮮やかな銀髪はしだれ柳のように流麗で、その銀髪に縁取られた顔にルビーのような赤眼が輝いている。そんな美少女が三つ指をついている。もちろん面識はない。それはいい。
「どうされましたか? 表情固いですよ?」
キョトンとした表情で、赤い瞳が小唄を見上げる。
「いや、うん。ええっと……、とりあえず、服を着て」
生まれたままの姿にエプロン一枚というマニアックな装いで三つ指をついていた少女は、その言葉で得心したように「ああ」と苦笑した。
「並々ならない事情があったんです」
男物で申し訳ないと思いつつ小唄が見繕ったぶかぶかの衣服に身を包んで、入江加奈子と名乗った少女は真剣な表情で宣言した。ダイニングテーブルで向かい合わせ。用意されていた中華料理を囲んだ二人きりの食卓のさなかである。
「いささか、いささかではありますが、裸で小唄さんをお迎えすることに躊躇いはありましたよ? 私だって」
(いささかなんだ……)
「しかしです。無断で小唄さんの衣服を拝借することの方がよほど躊躇われたわけですよ。もしかしたら小唄さんが潔癖症で、そのことに嫌悪感を抱かれる可能性がなきにしもあらず。その可能性が捨て切れなかったので、私は衣類を身にまとう選択をグッとこらえて、小唄さんの帰りを待っていたのです」
行儀良く背筋を張って主張する姿は真面目そうな気質をにおわせる。はきはきと聞き取りやすい語調は利発そうだし、一発目の裸エプロンさえなければ間違いなく才女の印象を心に刻まれていたことだろう。
「ところがどっこい、話はこれだけでは終わりません」
「と言うと?」
初対面の相手にもちゃんと合いの手を入れてしまうのは、優しさの権化たる小唄の性とも言える。
「刻々と時間が進むにつれて、私、気付いたんです。ご飯くらいは作らなきゃって。一宿一飯の恩義、いつものお礼をしておかなければと。あ、冷めない内にどうぞ」
「あ、うん、ありがと。じゃあ、いただきます」
少女に促され手を合わせる小唄。ひとまず黄金色の中華スープを口に運ぶ。おいしい。
「それでですね。申し訳ないとは思ったんですが冷蔵庫の中を拝見したんですよ。そしたら見るからにレバニラと酢豚を作ろうと思っていた形跡が見て取れたので、お粗末ながら私が作らせていただこうと食材を手に取ったわけです」
テーブルにはレバニラと酢豚を主菜に中華スープと白米が並ぶ。まさしく小唄が想定していた通りの献立。冷蔵庫の材料からこの献立を導き出せるあたり、加奈子のキッチンスキルは小唄と同等かそれ以上の域にあることが知れる。
「そうしたらばですよ。フライパンから熱された油が跳ぶは跳ねるはで、全裸の私は阿鼻叫喚を余儀なくされまして」
聞くからに痛い話である。
「で、これはさすがにと堪りかね、エプロンだけは借りたわけです」
「はあ、なるほどね。それでエプロン着てたんだ」
納得の応答と共に小唄はずっと肉体が欲していたレバニラを口に運んだ。
瞬間、言葉を失ってしまう。おいしい、だけではない。美味以外のものが、体の中に染み渡ったからだ。
その小唄の表情を見て、赤い目の少女が不思議そうに首をかしげた。
「あの、もしかしてお口に合いませんでしたか?」
「ううん、そうじゃなくて……」小唄はゆっくりと首を振った。
――そうじゃなくて、
「いつも一人で食べてるから、こういうのいいなって思ってさ」
懐かしい味だった。ネットのレシピには絶対に載っていない味。小唄はその一口を含んだ瞬間に、死別した両親の顔を思い出した。三人で暮らしていたころ毎日口にしていた我が家の味を、加奈子の料理は再現していた。
「そうですか。ならよかったです。私はいなくなったりとかしませんから、どうぞゆっくり召し上がってください」
「うん、ありがとう」
小唄の顔を幸せそうな笑顔で眺める少女と言葉を交わしながら、小唄はゆっくりと夕餉を堪能した。