1-3
「よっ。来たな、天然ジゴロー」
部屋のドアをノックすると、定宏風馬は即座に小唄を招き入れた。射し込む西日が、室内を赤く染め上げている。
小唄自身何度も入ったことのある部屋だが、その度にいつも感じさせられるのは定宏風馬のセンスの良さだ。パープル、グレー、ネイビーを中心にシックなカラーで纏められた一室はお洒落の一言に尽きる。男の一人部屋で日用品を“飾る”という発想はなかなか出てこないものだが、彼はそのあたりの収納術に長けているようであった。グレーのベッドに備え付けられたブラックのヘッドボードには紫色の小物入れと銀の腕時計、ダークブラウンの携帯電話などが綺麗にセットされているし、カラーボックスを組み合わせて作り上げたと思しき階段状の収納棚には、小さな観葉植物やフォトスタンドに紛れてカップ麺や食器類が違和感なく展示されている。まるでモデルルームのような空間。一度入室すれば、その誰もが彼のインテリアセンスに舌を巻くだろう。
「遅かったじゃねぇか。待ってたんだぜ」
そんなハイセンスルームの住人が、これまたセンスのいい身なりで小唄を歓迎した。
カーキ色のハーフパンツに黒と亜麻色の二種類のタンクトップを重ね着した姿は、雄臭く野生的な出で立ちである。
「すみません。ちょっと野暮用ができちゃいまして」
ぽりぽりとうなじをかく小唄。それを受けて、風馬はカカっと相好を崩した。太陽を梳った(くしけず)
ような風馬の金髪が、光を受けて綺麗に発色している。
「まーた女からの呼び出しか。ほんと忙しいなお前」
その笑顔が奇妙なほどに眩しい。わざとらしい笑みと言うか、にかにかと作り物のような、圧のある笑顔。
「いや、それ先輩にだけは言われたくないんですけど」
可愛い彼女をとっかえひっかえ、真性の女たらしという噂が絶えないのが定宏風馬という少年だ。
「ばーか。俺は自分から勇気振り絞って作ってんだろうが。ちゃーんと苦労した上でよ。それに引き換えお前って奴は……」
風馬は呆れた顔で小唄をしげしげと見た。中世的な面構えに清潔感あふれるサラサラの頭髪。一七八センチという理想的な背丈を持つ体はキュッと引き締まっているし、性格の良さは折り紙つきだ。スポーツ万能、学業優秀、文武両道の美少年。そして何より、金糸雀小唄は空気が読める。
「美少女ホイホイかお前は。苦もなく女の子のハートをキャッチしやがって」
「すいません」
「恐縮してんじゃねぇよ。お前のせいで恋敗れた人間は振った女だけじゃねぇんだぞ」
「はい?」
風馬の言葉の意図を掴みあぐねて、小唄は小首をかしげた。
「考えてもみろ。お前が好きだから、他の男の告白断ったってケースもありそうだろ?」
「はあ」
「お前がモテるばっかりに、泣いた男もいるんだよ世の中には」
「はあ」
「好きな人がいますって――あなたも知ってる人ですって、告白した女の子にそう言われる気持ち、お前分かるか?」
「はあ……、は?」
「お付き合いはできないけど、友達として相談のってくださいってよお。ああん?」
「……先輩、まさか」
「振るならよぉ……、振るならもっと早く振れよおおおお! お前が先に振っときゃ俺たちゃ結ばれてたかもしれねぇだろうがよおおおお!」大きく声をあげた風馬が小唄の襟首を引っつかんでがくがくと揺さぶる。
無茶を言うな。
「お前これで何人目だと思ってんだよ! 六人目だぞ六人目ぇ! ついに昆虫の足の数に並んだなぁおい!」
乳房の数なら一ダースである。
「あの子もこの子も小唄くん小唄くんってよお。なんで俺経由なんだ? ああ? 俺はお前のマネージャーじゃねぇんだぞ!」
「そ、そんなこと僕に言わないで下さいよぉ。先輩がその場で直接そう言えばいいじゃないですか」
お説ごもっともだ。筋トレになりそうなほどのオーバーアクションで小唄を揺さぶっていた風馬の動きがピタリと止まった。
「それが……」
表情が、引きつっている。
「それができたら苦労しねぇんだよおおおお!」
もはやヘッドバンギングである。小唄の頭蓋が激しいビートを刻みながら大きく前後する。頭がすっぽ抜けるんじゃないかという勢いで繰り返される前後運動は、襟首を掴む風馬の手が先にすっぽ抜けることによってようやく停止、
「ごふっ!」
するはずもなく、慣性に導かれるままに小唄の頭は強かに壁面へとめり込んだ。
「ってぇ……」
眼窩で爆竹が炸裂した思いである。打ち付けた後頭部をさすりながら、乱れる焦点を風馬へと定める。と、
「俺の心はもっと痛ぇ!」
定宏風馬が泣いていた。
「な、泣かないでくださいよ」
「泣いてねぇ! 心のアサリだ馬鹿野郎!」
それを言うなら心の汗です。
目尻に滲む心のアサリをごしごしと拭って、風馬がむすりと小唄を見やる。そして呼吸を一つ。
「小唄よお、お前いい加減彼女作れ。このままじゃ何人恋に破れるかわかんねぇぞ?」
「そう言われても……」
そればかりは気持ちが動かないのだから仕方がない。いくら惚れられても、小唄自身がその気になれないのだから。
「いいじゃねぇか、できてみたら気持ちが動くってこともあるかもしれないだろ?」
「はあ、まあ……」
「だからとりあえず誰かと付き合ってみろって。二次元でも四次元でも」
「いや、異次元の恋人は願い下げです」
「世界が広がるぜ?」鮮やかなコバルトブルーの双眸が小唄を真っ直ぐに覗き込む。
広がるどころの話ではない。
小唄は全力で首を振った。当然横にだ。
「……ふむ」
小唄の反応を受けると、風馬はもっともらしく唸ってみせてから傍らのベッドに腰を下ろした。
「まあ、それは冗談としてもだ」
目は本気だったように思う。
「そろそろそういうのも考えないとな。俺らは困るわけよ。お前が恋愛してくれねぇと……、その……あれだ……」
ぶつぶつと言いながら渋面になる風馬。
はて何が言いたいのかと小唄がきょとんとしていると、
「だーもう情けねぇ!」
彼は急に頭をガシガシとかいた。
「わりぃ、今の忘れてくれ。完全に俺のわがままだったわ」
悔恨の色すら伺わせる定宏風馬に、小唄が詰問することなどできはしない。
小唄が恋愛をしないと――どうなるというのか? 発言の真意と風馬の表情に知識欲がむくむくと膨れ上がったが、決して人を傷つけるべからずと心に刻んだ少年は、その欲求を飲み込んだ。
「ともかくだ。俺は心配してんだよ。お前の恋愛事情をよ。さっさとまひるあたりと付き合っちまえ」
瞬間、栗色のショートカットが小唄の頭に残像する。橘まひる(たちばな)は金糸雀小唄の幼馴染だ。ついでに言えば、二年ほど前まで付き合っていた元彼女という存在でもある。もっとも、中学生同士のお付き合いなど健全そのもので、世間一般から見た恋人のカテゴリに当てはまるかは極めて微妙であり、お互いに恋人だと思い合っている以外に友達以上の何かはなかったが。
しかも、別れてからの仲がすこぶる悪い。
「なんでまひるがでてくるんですか? 彼女とはもう何にもないですから」
ただ、そのあたりの関係の見え方が風馬はどこかズレているらしい。
「その割には仲良いじゃねぇか」
小唄にとって見当外れな見解を金髪の少年は大真面目な顔でのたまった。
「どこがっすか? 先輩とスズメさんくらいですよ? 僕とあいつ見てそんなこと言うの」
「これだもんな」
小唄が言うと風馬は溜息まじり肩を竦めた。
「ま、いいけどよ。お前らの問題だしな」
諦めたような語調で会話に一区切りをつけると、定宏風馬はヘッドボードに置かれている紫色の小箱へと手を伸ばす。
「さて、世間話もこれくらいにしとくか」
小箱の蓋を極めてナチュラルな動きで開封する風馬。その中身が現れるのを見て、今度は小唄の方が溜息をついた。
怪しく光る禍々しい物体が、風馬の手に収まっている。
――牙。
そういう以外にはなんとも形容しがたい。強いて例えるなら吸血鬼の歯型とでも言えばいいか。黒いマウスピースから二本、明らかに長すぎる犬歯が突き出しているのだ。
その歪なマウスピースを風馬がくわえこむと、その野生的な相貌に拍車がかかった。
上顎からにょきりとのびる二本の牙。
「行くぜ?」
猟奇を宿した風馬の唇がキキッと笑った刹那、小唄の目の前で腰掛けていたはずのその姿が、フッと消失した。
「お前が女なら最高なんだけどな」
かと思えば、突如として背後から抱きすくめられ、そんな言葉が耳元を撫でる。
「じゃあ、次は女装してきましょうか?」
瞬間移動したとしか思えない痴漢に小唄は驚きもせずに言う。
「そっちのほうが先輩気兼ねしないって言うなら僕は別に――」
「やめろバカ。女装させた後輩部屋に誘うとか、俺が変態扱いされるだろうがっ」
然りだ。そしてかなりアブノーマルな方のご趣味である。もっとも、風馬が小唄を抱きすくめている今の絵面も十二分に変態的であるが。
「んじゃあ、そろそろ」
背後で呟いていた風馬の口が、すうっと小唄の首筋に肉迫する。が、
「ん? おい小唄。お前、首んところ」
その動きがうなじの直前でピタリと止まった。小唄の肌の一点がぽちりと赤く腫れている。
「ああ、そうなんですよ。昨晩そこ食われちゃって……」
「蚊か? まあ夏だしな。ついでだ、治しといてやるよ」
「あ、いいんですか?」
「いいよ別に。普段貰いっぱなしだからこれくらいはな」
「ありがとうございます。助かりますよ」
「おう、存分に感謝しろ。さて、じゃあ今度こそいただきますかね」
直後、冷やりとした鋭い感触が二つ、首筋に触れた。その感触が続けざまにずぶずぶと内側へと侵入していく。
「ぅく……あぁ……」
異物に侵される感覚に小唄が呻く。風馬の牙はこれまでに何度も経験しているが、痛みも無くうなじに何かが入り込んでくるという奇妙な挿入感は、いつまでたっても慣れることができそうにない。
やがて犬歯の大半を小唄へと沈めた風馬の唇が、ひたりと彼の肌に吸い付いた。
――ゴキュ。
生々しい音が背後から響く。首筋から流れ出る小唄の血液を貪る音だ。それが幾度となく背後から響き、血を奪われていくにつれ、徐々に意識がぐらつきはじめる。しかしゴキュゴキュとなる音だけがやけに鮮明で、依然としてその奇行が続いていることを知る。
――ゴキュ、ゴキュ、と、風馬の喉が鳴るたびに一つ一つ脳細胞を抜き取られているような感覚だ。
少しずつ、少しずつ、薄れていく現実感。まどろみに落ちていく時のように、小唄の頭を空白が侵食していく。
いつ終わるとも知れない失血のさなか、
(赤肉……レバー……ホウレン草ぉ……)
失った鉄分を如何に補填するかを考えながら、金糸雀小唄は意識を手放した。