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少年が、自分自身がどうやらモテるようであると気が付いたのは、高校に入学してしばらくしてからのことだった。昇降口の靴箱や教室のロッカー、学習机の中等々、やたらめったらラブレターが投函されるのである。この小唄のモテっぷりが周囲に露見する直前直後、つまり、彼の人気が最高潮であった一時期、金糸雀小唄の靴箱は恋文ポストと化していた。その手紙の束に辟易としながらも真摯にお断りの返事をしてしまうのだから、少年の誠実さは筋金入りの鉄筋コンクリート級と言えよう。
かくして、女性からの告白をことごとく断る小唄の噂は着々とその知名度を増し、結果、新たにこんな噂がたったのが高校一年の冬のことである。
――ひょっとして、金糸雀くんってゲイなんじゃないの?
当然の理である。美少女たちの告白をばったばったと切り倒し、ごめんねの言葉で貫いたおっぱいの数は両手両足の指の数ではとうに足りない。そんな少年に男色の疑惑が浮上するのは無理からぬ流れであった。
ただ、幸いというのもおかしな話だが、彼が通う糺ノ丘高等学校にはその気の男子生徒は極僅かのようであった。同性からの恋文は僅かに二通――いや、二通も来る時点で十分に驚異的なのだが、これまでのラブレターの猛襲を経た金糸雀小唄の感覚は、とっくの昔に変態していた――これを二つとも断って束の間で、彼の男色疑惑はぱったりとなりを潜めた。ありがたい話である。
しかし、困ったことに小唄がモテるのは異性や同性ばかりではないのだ。というか、異性や同性にモテていること自体は彼にとって比較的些細な問題であり、彼が抱える事情の前にはそもそも問題にすらならないような日常の一コマに過ぎなかった。
だいたい「いやあ、俺モテて困るんっすよあははー」などというセリフは、人間相手にこそ適用されるべき文句だとは思わないだろうか?
例えば、女の子にモテて困るとか。例えば、男の子にモテて困るとか。例えば美少女に、例えば美少年に、例えば大人に、子どもに、エトセトラ……。せいぜい、万人が良し思えるのは犬猫までが限界だろう。
しかしだ。まかり間違ってもコウモリとか、ヤツメウナギとか、ましてや無脊椎動物相手に「モテて困る」なんてことは有り得ないのである。望んでもいないのにそんな動物に付きまとわれるなど、ホラー映画のシナリオに成り得る。もしそんな状況で「モテて困る」なーんてセリフをこぼしている人間がいたならば、それは言葉の綾とか照れ隠しなどでは決してなく、桃から生まれてみたらそこは鬼ヶ島でしたレベルの緊急SOSであるに違いない。その人間は確実に、その言葉の意味のまま、正真正銘に困っているのである。
そしてそれは金糸雀小唄とて例外ではない。実際、彼は困っていた。
このような現状に陥ってしまった自身の身の上を、幾ばくか呪ってすらいる。
己の体内に流れる血潮、血脈。それを元凶などとは思いたくないが、流れていく日常に横たわる超常という現実は、確かに彼を取り巻いていた。自らが打ち立てた誓いの元、その現実の中を如何に生き抜いていくか。誰かに相談できることではない。彼一人が立ち向かっていかなければならない問題。
端的に言おう。つまり、
金糸雀小唄には秘密があった。
クラスメイトの告白を断ってから数分後、小唄は帰り道とは逆の方向へと歩を進めていた。糺ノ丘高等学校の裏手に広がる山林、その勾配に据えられた石段を一歩一歩と踏み上がっていく。林立する樹木を切り開いて設置されたこの石段に、夏の西日を遮るものは何もない。照りつける陽光に背中を焼かれながら歩くこと数分、石段を登りきった先には古ぼけた趣の学び舎が鎮座していた。
旧・糺ノ丘高等学校。
三十年前にお役御免となった旧校舎である。現在は内装を改築し、学生寮としての役割を担っている施設。とはいえ、ここで生活している住人はそう多くはないのだが。
勝手口をくぐりぬけ、すぐ脇の寮監室のチャイムを鳴らす。ピンポーン。
「はぁい」
たおやかな声が寮監室から響いてきた。室内からぱたぱたと音を立てて現れたのは、藍色の和服を着込んだ美しい女性。結い上げた黒髪に銀の簪が揺れている。見るからに大和撫子なこの女性は学生寮の寮母さんで、名を外村スズメさんという。和服によって強調されたしなやかなボディラインとこの上なく整った目鼻立ち、浮世絵のモデルにでもなれそうなほどの美貌であるが、これで四十路だというのだから恐ろしい。
「ああ、小唄くん。いらっしゃい」
金糸雀小唄を認めると、スズメさんは上品に微笑んだ。
「どうもです。スズメさん」
小唄もまた呼応するようにふわりと微笑み、軽く会釈。
「今日は少し遅かったじゃない。また告白でもされてたの?」
「いえ、まあ」
小唄が照れくさそうにうなじの辺りをぽりぽりとかくと、スズメさんはクスクスと笑った。
「色男は大変ね。でも、そんな断ってばっかりいると、恋愛の神様に見放されちゃうわよ?」
「だからって、その気もないのに付き合えませんよ。それに僕、お付き合いのスタートって、やっぱり男の側から申し込むものだと思いますし。なんていうか、自分が好きになった人と付き合いたいっていうか」
「そんなこと言ってると、婚期逃すわよ」
「どうしてです?」
「そういう信念がいざって時の足枷になって、一度しかないタイミングを逃しちゃうから」
「うーん……」
あまりピンとこない話だった。当たり前だ。ご立派な告白論を持ち合わせている小唄少年であるが、その実彼には恋愛経験が少ない。初恋こそそれなりに経たが、三年前に誓いを立てたあの日より奇妙に捻じ曲がった彼の日常は、彼が誰かに恋慕する余裕を与えなかった。経験不足の恋愛観ほど夢想的なものはない。
「ちゃんと恋愛しなきゃダメよ。恋も語れないんじゃ、せっかくのイケメンが台無しだもの」
「はあ、まあ、善処します」
小唄の気のなさそうな返事に、外村スズメさんは可愛らしく溜息をついた。
「前途は多難ね」
全くである。
「さて、それじゃあ今日も行きましょうか」
「はい。今日は誰の番でしたっけ?」
「今日は風馬くんね。朝から張り切ってたわよ、あの子」
「風馬先輩ですか……」
小唄の脳裏ににたにたと笑う男の姿が過ぎる。定宏風馬は小唄の一年上の先輩だ。
「やっぱり男の子相手は気が進まない?」
「いえ、そこじゃなくて、あの人は量が……」
量が……。