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1-1

 三年前の夏の午後、降りしきる雨を車窓に眺めながら、金糸雀(かなりや)小唄(こうた)は誓いを立てた。

 これより未来、決して二度と絶対に、人を傷つけることは犯すまいと。

 弱きを助け、強きを支え、悪を諭し、義理に堅く、常に善人であれ。

 誰かにそう教えられたわけではない。彼自身が、その夏の午後に誓ったのだ。誰にも恥じることのない人生を自分一人の力で切り拓くと。誰にも迷惑をかけず、誰一人として傷つけず、可能な限りの幸せを、自分を取り巻く全ての人に与えたい、と。

 このような大それた誓いは、並みの努力では成し得ない。そんなことは言うまでもないだろう。しかも思春期真っ盛りの高校生。心無い生徒もいれば、思わぬハプニングもある。団体行動ゆえの軋轢に苛まれることも日常茶飯事とくれば、彼の誓いの実践は、ほぼほぼ苦行と言って差し支えがなかった。

 しかし、にもかかわらず、いかなる逆境が彼を追い詰めようとも、彼はこの誓いに忠実に生きてきた。家を出る前には仏壇に手を合わせ、通学路の途中ですれ違う人々にこんにちはと挨拶をし、駐車場の野良猫にひとかけのパンを。学校に着いたらばクラスメイトと談笑を楽しみ、授業となれば真剣に教師の言に耳を傾ける。

 どんな人にも敬意を払い、分け隔てなく接するその柔和な物腰はもはや僧侶の域。人畜無害もここに極まれりである。

 ――人を傷つけるべからず。

 千変万化の日常の中で、小唄は誓いを貫いてきた。

 もちろんそれは、一世一代の大勝負の場面であっても例外ではない。

 この日もまた、決意を秘めた少女が一人、金糸雀小唄と対峙していた。二人きりで……。



 放課後の教室。誰もいなくなった夕方のころである。

「ごめんね。急に呼び出しちゃって」

 長らくの沈黙の後にこぼれ出た少女のセリフは、謝罪の冠を被っていた。

「いや、いいよ。ちょっとビックリしたけどね」

 うなじの辺りをぽりぽりとかいて、金糸雀小唄は微笑んだ。

「あ、あははー。そりゃそうだよね。下駄箱にあんなの突っ込んだの私も初めてだったし」

 対して、同じく笑う少女の声はどこかぎこちない。当然だろう。この娘は、生まれて初めて男子生徒の靴箱に恋文というものをしたためたのだから。

 金糸雀小唄と少女の出会いらしい出会いは、まだほんの二ヶ月ほど前だ。高校二年生となって早々、小唄が引き受けたクラス委員の枠は二名分あったのだが、そのもう一枠に入り込んできたのが彼女だった。クラスメイトからすれば、激戦を勝ち抜いた女である。

 詰まるところ、金糸雀小唄はモテるのである。

 クラス委員に小唄が立候補した途端、残りの一枠は瞬く間に群雄割拠の乱世の様を呈した。もちろん立候補者オーバーとなれば投票となるわけだが、女性票は全て小唄に流れて当確。残りの一枠に群がる女子生徒へは必然的に男子票が集うわけで、つまり、クラス委員投票の皮を被ったミスコンみたいなもんである。だから今まさに小唄へと想いを打ち明けんとしている恋する乙女は、ミス二年A組だ。イイ女選手権Aブロック代表。

 そんな彼女からのラブレターが下駄箱に入っていれば、健全なる高校二年生ならば自尊心が有頂天に舞い上がるべき場面であろう。

 しかし、金糸雀小唄はこの少女からの文を見て、あろうことか溜息をついた。

「またか……」と、そう思ったのである。

 生来、彼が受け取ったラブレターはもう数え切れない。しかしながら彼はその想いに応えたことは一度もなかった。その気もないのに付き合うなどできはしない。それは彼の信条に反することであるからだ。ただ、想いを拒むこともまた、相手を傷つけてしまうのは自明の理である。

 いやはやどうするべきか……。

 ほとほと憎ましいまでに贅沢な悩みだが、この手の手紙をもらうたびに、彼は胸が潰れる思いであった。

「で、さぁ……、そのぉ、返事、聞かせてもらえたらなあ、なんて、思うんだけど」

 少女はぎゅっと胸を押さえて小唄を見やる。豊満な胸である。少女の胸元はまさしく“胸が潰れる思い”を体現しているようであった。しかし、乳のデカさと恋愛は関係ない。ロマンとロマンスは別物なのである。

 一度、小唄は小さく呼吸を整えた。

 これまでの経験上、告白を綺麗に断るためのポイントを、金糸雀小唄は心得ている。

「ああ、うん。あの、気持ちは嬉しいんだけど」

 ポイントはたった一つ。

「ごめん。僕、他に好きな人がいるんだ」

 きっぱりと、明確に断ることだ。たとえ自分が嘘つきになるとしても、はっきりと言う。それが想いを打ち明けてくれた女性を傷つけない唯一の方法なのである。

「だから、ごめん」

 言えば、目の前の少女は魂が抜け出るかのような溜息と共に項垂れた。その落胆の面持ちを見て、小唄は再び胸が潰れる思いを味わった。少女の豊胸は未だ文字通り潰れている。しかし、これでいいのである。自分の胸ならいくら潰れようがかまわない。例え罪悪感で肋骨が折れようとも、それで目の前の少女が必要以上に傷つかずにすむのならば。

 金糸雀小唄は知っている。自分が嫌われないために答えを濁したり、保留したり、思わせぶりを演じることのほうが、かえって後々、相手を深く傷つけることを。

 だから、きっぱりと言うのだ。

「それじゃあ、ね」

 鮮やかに少女の告白を玉砕した小唄は、彼女に背を向けて教室を後にした。すぐさま立ち去ることも、相手を傷つけない大切な要素であることを彼は熟知しているのである。

 落胆する少女の姿を脳裏に描いて、また一つ罪悪感に心を傷つけた少年は、しかし振り返ることをせずに、夕刻の校舎を歩きぬけた。


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