プロローグ
この季節、寝苦しい夜に決まってやって来る存在がある。
それは、火照る身体を団扇でもって健気に涼ませてくれるお姉さん的存在だとか、風邪の看病のために手ずから額のタオルを交換してくれる可愛らしい幼馴染的存在だとか、そういうハッピーな存在では決してない。
むしろ真逆。
匂いフェチの耳元フェチ、そして重度の血液嗜好症。人様の肌に断りもなく口をつけ、その鮮血に喉を鳴らし、ことを終えれば闇の中へと消えていく存在。人間を血液タンクくらいにしか思っていないであろう夜の脅威だ。
別にヴァンパイアの話をしているのではない。
が、それに近しい存在であることは周知だろう。
汗の匂いに誘われて、夏の枕元で歌うあの虫だ。黙示録のラッパでパンドラの箱の中身を鼓膜めがけてピンポイント照射しているとしか思えない不協和音に眠りを妨げられた人間の累計は、おそらく天の川銀河の星の数を越える。七夕の短冊に本当に願いを叶える力があったなら、季節柄、そこに書かれる願いの多くは間違いなくこうだ。
「蚊がいなくなりますように」
今宵も、その音色に意識を絡め取られた人間が一人、目を覚ました。
ところで、人間というものは残酷な生き物である。有害無害に関わらず、縄張りに飛び込む闖入者を問答無用で撃退するのだから。ハエ叩き片手に襲い来る様は悪鬼のごとく、殺虫剤を放射するその無表情は氷のように冷酷である。こと寝起きに関しては、その攻撃性が殊更に高まるのというのも問題だ。だから即ち、真夜中に羽音を気取られた蚊の運命というやつは、想像するに悲惨である。両の手のひらに打ち付けられて、ぷちり――である。
しかし、今宵侵入したこの蚊に関しては、幸運であったと言わざるを得ないだろう。
なぜなら――。