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或る夫婦の話

作者: 羽田時緒

ムーンライトノベルズに投稿した「夜光虫」の番外編です。

本編を読まなくても理解できるように書いたつもりですが、お読みになられた方がより内容がしっくりくるかと思います。

*注意 死人が出ます。

 深々と冷え込む大晦日の夜。パチパチと音を立てて燃える焚き火に手をかざし暖を取る。周囲には玉砂利を踏んで行き交う参拝客がごった返していた。

 智恵が高校生まで過ごした村の神社であるが、今のところ知り合いは見当たらない。いたとしても地元を離れて10年以上経っているのだから、お互い誰だか判別が付かない可能性が高いだろう。一緒に来ている連れはお守りを買う列に並んでいるはずだった。


「理系のくせに」


 人混みをちらりと見遣ってから炎に向き直り、智恵は不機嫌そうにぼそりと呟いた。

 夫の慎司は信心深いとまではいかずとも神社やお寺の礼節に妙に律儀で、どんなに混んでいても初詣や墓参りは欠かさない。智恵がぼろぼろになったお守りをゴミ箱に捨てようとしたら怒られたこともある。よく言えば日本の風習を大切にしているのかもしれないが、智恵にしてみれば並んでまでお参りをしたりお守りを買うなどまったく馬鹿げていると思うし、そんなに叶えたい願いがあるならその時間を使ってできる努力があるだろうと思ってしまう。

 それでも普段なら面倒だと思いながらも慎司に付き合うところを、今日はとてもそんな気になれかった。

 原因ははっきりしている。いわゆる夫婦喧嘩というやつだ。

 智恵と慎司が結婚して5年が経つ。大学の研究室で気が合って付き合い、修士課程を修了してすぐに結婚した。ところがお互いに仕事に追われ生活はすれ違い、連日の残業、休日出勤でたまに会えばやるだけの毎日。そして、やることはやっているのになかなか子どもができず、それに対して夫婦間で温度差があり過ぎるのだ。智恵はできたら生めばいいしできなければそれでいいのにと思うのに、慎司はそうではないらしくさり気なさを装って病院へ行くことを勧めてくる。仕事を理由に受け流してきたが、だんだんと慎司の言い方も露骨になり、それにつれ2人の間の雰囲気はどんどん険悪になっていった。

 家族の形なんて一つではないのだから変にこだわる必要はないのに。あんなステレオタイプな奴だと思わなかった。智恵の不満は募るばかりだった。

 寒いし早く帰りたい、馬鹿みたい、と心の中で悪態を吐きながら寒さに身を振るわせた時、「あれ?」と低い声がした。


「智恵ちゃん?」


 逡巡の後振り返ると、見覚えのあるくせ毛に長身の男が立っていた。


「あ。えっと……秀君?」

「やっぱり智恵ちゃんか! 久しぶりだな!」


 人なつこそうな笑みを浮かべた男は長井秀一。智恵の実家近くに秀一の祖父母が住んでおり、秀一は長期休みになるとやってくる「近所の年の近いお兄さん」だった。過疎が進む村で同じ年頃の子が少なかったせいもあり、秀一とは休みになる度一緒に遊んだ思い出がある。街育ちの秀一に、智恵は得意になってドジョウの穫り方や畦道の草花の名前を教え、弟の啓太も連れ立って3人で日が暮れるまで野山を駆け回ったものだ。秀一の祖父は何年か前に亡くなったが、祖母は90歳を過ぎてなおかくしゃくとしており、今でも現役で畑に出ている元気おばあちゃんだ。


「本当、久しぶり! 知り合いがいるなんて思ってもみなかったよ」

「だよな。なんかお互いいい歳になっちまったし」

「私だってよく分かったね」

「まあ……な。智恵ちゃんは今、何してるの?」

「メーカーの事務職」

「大学は農学部だったっけ? てっきり技術職に就いてるのかと思ったよ」

「そのつもりだったんだけど、なんか実験が向いてないなと思って。就職は文転しちゃった。秀君は?」

「俺は高校で数学教えてるよ」

「そっかあ。数学得意だったもんね」


 休みの間、智恵は秀一に宿題を手伝ってもらっていた。期間限定の家庭教師のおかげで苦手だった理数系科目で点数を稼げるようになり、高校で思い切って理系を選択し、大学は国立の農学部に進学することができた。


「教員採用試験、2回も落ちたけどな。ところでさ、今一人なの?」

「え? えっと……」


 分からず屋の慎司のことなど放っておいて、いっそこのまま秀一とどこかへ行ってしまおうか。そんな邪な考えが頭を掠める。「どうしようかな」と言いかけたところで、「妻に何か」と言うやけに不機嫌そうな声に阻まれた。


「妻?」


 困惑気味の秀一に智恵は仕方なく、「私の夫」と渋々紹介すると、慎司はぶすっとした表情で軽く会釈し、「それじゃあ俺らはこれで」とろくに挨拶もせずに智恵の手を引っ張り歩きだした。「秀君、じゃあね!」と智恵が叫ぶのも届いたのか、ずんずん人混みをかき分け、あれよあれよという間に秀一から遠ざかっていく。

 先を歩く慎司に「お守り買えたの?」と聞くと「買えたよ」と答えるだけ。その子どもっぽい態度に呆れかえりながら、そういえば手を繋ぐなんていつぶりだろうと思った。しかも、「妻」だなんて人前で言われるのは初めてかもしれない。草食系で普段人と対立することを好まない慎司が、長身の秀一に対して精一杯強がっていた様子は思い出すとなんだか可笑しくて思わず吹き出してしまった。


「何だよ。笑うなよ」

「だって……」

「あいつ、何?」

「何って?」

「昔の彼氏とか」

「違うよ! 休みに帰省しに来てた近所のお兄さんで、幼馴染みみたいな人」

「本当か?」

「本当だって」


 その時、神社とは別の方角から鐘の音が聞こえてきた。どうやら年が明けたらしい。慎司はまだ「ならいいんだけど……」などとぶつぶつ言っている。

 実家までの農道を歩きながら、智恵の脳裏にふと昔の情景が思い出された。

 この道は、父と弟の啓太と手を繋いでよく神社のお祭りやお参りに行った道。出不精の母はいつも家で留守番。学校の行事に参加するのも父だけで、それに対して智恵はずいぶん我侭を言って両親を困らせたものだ。それもそのはず、母はただの出不精では済まされないほどの対人恐怖症で、とくに大勢の人が集まる場所へは絶対に近付かなかった。「どうして」と聞く智恵に2人とも言葉を濁らせるばかりで詳しい話は教えてくれなかったが、霊がどうのこうのという話をしているのを聞いたことがある。まさか本当に霊が見える訳がない。今思えば精神病の類いだったのだろう。

 そんな母も5年前、つまり智恵が結婚した直後に病気で亡くなった。今は広い屋敷に父が一人で住んでいる。弟の啓太は大学進学と同時に家を出て、今は都会でシステムエンジニアをしている。


「親父さん、家に残してきちゃってよかったのか?」

「ああ、いいんじゃない? 田舎は早寝早起きだから」

「なあ、あの話……」

「うちに呼び寄せるって? 話してみたけど嫌だって。なんか母さんと離れるみたいだって聞いてくれなくて」

「親父さんとお袋さん、仲よかったんだな」

「特に父さんが母さんにべた惚れでさ。知っての通りうちの母はちょっと変わってて、あんまり人前に出たがらないでずっと家に引きこもってるような人だっだんだけど、だからこそ父さんは母さんに対して余計に過保護になってたんだと思う。学校の行事だとか遊びに行くのでも全部『俺が行くから』って」


 父は母を庇い、それでいて子どもたちにも寂しい思いをさせないように色んなところへ連れて行ってくれた。だから、動物園も遊園地も水族館もいつだってそこに母の姿は記憶にない。従順で物分かりのいい啓太と違って、智恵はそれに納得できず不満を溜めていた。

 あれはいつだったか、智恵が小学校低学年の頃、母が入学式も運動会も来てくれないのには我慢できたのに、ある日ついに堪っていた不満を爆発させてしまった。学校でよその子に「智恵ちゃんのうちっていつもお父さんしか来ないよね」と言われたせいだろう。智恵は家に帰ってから授業参観の案内が掲載されたプリントを握り締め、台所で夕飯の支度をしていた母に向かって「明日は絶対に来てよ!」と言い放った。それから「駄目なものは駄目なの」と言う母との無理問答のようなやり取りの最後に、思わず「クラスの皆も智恵のお母さんは変だって言ってるよ!」と叫んでしまった。それまで智恵に辛抱強く言い聞かせようとしていた母ははっとして黙り、そしてひどく傷ついたような表情で「一緒に行ってあげられなくてごめんね」とだけ呟いた。

 後から滅多に怒らない父に「いい加減にしないか!」と声を荒げて叱られたことよりも、その時の母の寂しそうな顔の方が智恵にとってはよほど堪えた。きっと智恵が母と出掛けたかったのと同じように、母も家族と一緒に出掛けたかったのだ。

 結局、母はその後の人生のほとんどを田舎の屋敷で過ごすことになる。病に倒れてからは通院することもあったが、父は往診してくれる医師と看護士を探し出し、自らも介護を全面的に引き受け可能な限り自宅で療養ができるよう手筈を整えた。しかし、そんな父の努力も虚しく母の病状はどんどん悪化していった。医師に余命を宣告されたため、智恵と慎司は予定を早めて式を挙げた。

 そしていよいよ臨終が近付き、智恵と啓太も帰省し母の最後を看取ろうという時だった。何日間かの昏睡の後、母が不意に意識を取り戻した。父は枕元で母のすっかり痩せこけた手を握り、母が絞り出す言葉に耳を傾けしきりに頷いていた。もちろんそこに智恵も啓太もいた訳だけど、そこにはまるで父と母の2人だけしかいないみたいだった。「最後まで迷惑かけてごめんね」と弱々しく言う母に「いいんだ」と父が返す。

 それから何言かを交わした後、母が言った。


「私の方が……宏志さんに付きまとっちゃうね」


 智恵には意味の分からないその言葉も、父はちゃんと心得ているようだった。


「傍にいてくれ。これからもずっと一緒だ、美鈴」


 それを聞いた母は安心したように眠りにつき、それが2人の最後の会話になった。

 母が亡くなってからの父は、まるで魂の半分を持っていかれてしまったみたいに消沈し、ぼんやりとしていることが多くなった。縁側に座ってはらはらと舞う雪を見ながら「美鈴、見えるか? 奇麗だなあ」とまるでそこに母がいるかのように独り言を言っていることもある。


「……何だか変なところもある夫婦だったけど、その分絆が深いっていうか本当に仲がよくて。家の中でもしょっちゅうイチャイチャしてて、見てるこっちが恥ずかしくなるくらいだったよ」


 実家のそこかしこには母の思い出が染み付いていている。

 あれは智恵が中学に入学する年。初めて袖を通したセーラー服を見てほしくて母を探していたら、縁側に座って舞い散る桜を眺めている父と母を見つけた。2人の距離が妙に近くてドキドキしてしまい、うまく話しかけられずにいると、父の肩に頭をもたせかけていた母が智恵の存在に気付いた。「いやだ。智恵いたの?」なんて言いながら、少してれくさそうに笑う母はとても幸せそうに見えた。


「いい年していつまでも新婚みたいで困った夫婦だったな。だけど結婚したら私もあんな風にいられたらいいなって……」


 そこまで言ってから智恵ははたと我に返り口を閉ざした。自分たちが険悪な雰囲気であったことを思い出したのだ。慎司もまた背中を向けたまま歩き続けている。いまさら父と母の話を持ち出したところで、智恵と慎司の関係はもう修復不可能なのかもしれない。そう思った時、慎司が徐に口を開いた。


「あのさ。俺、智恵のお袋さんと話したことがあるんだ」

「え? いつの話?」

「ほら、結婚式の写真を見せに行った時。たまたま2人きりになって」

「何を話したの?」


 部屋に2人で残され、少し居心地悪そうにしていた慎司を智恵の母が手招きして枕元に呼び寄せたという。


「こんな格好でごめんなさいね。お節介かもしれないけど、これで最後になるかもしれないからどうしても話しておきたくて……」


 母はそう慎司に切り出した。その内容は、まるで智恵の取り扱い説明のようだった。智恵はしっかりしているようで本当は寂しがりであること。何でも一人で解決してしまうのは人に助けを求めるのが苦手だから。寂しいこと嫌なことをどうしようもなくなるまで我慢して、最後に爆発するから気を付けるように。

 そのひとつひとつが、智恵自身もなんとなく気にしていることをうまく突いていて思わずドキリとしてしまう。母とは一緒に買い物に出掛けることもなかったし、そういえばあまり相談に乗ってもらったこともないかもしれない。干渉しない代わりに放任主義で好きにやらせてくれていた母は、実はずっと見守っていてくれたのだと今になって気付かされる。


「それに、小さい頃に智恵には寂しい思いをさせてしまったから、普通の、平凡でありきたりかもしれないけど幸せな家庭を築いてほしいって言ってたよ。だから何としても子どもが欲しいって思って、なんか俺、一人で焦り過ぎてたのかも」

「そう……だったんだ」

「それにごめん。近頃智恵が不機嫌になってたの、俺が智恵にばっかり原因があるみたいな言い方してたせいだよな? 俺のせいかもしれないのに。いや、ちゃんと調べた訳じゃないんだけどさ。やっぱりはっきりさせておいた方がいいと思うんだ。もし俺のせいだったのなら、智恵くらいの年齢ならまだ別れてやり直すことだって」

「そんなの駄目だよ!!」


 そう叫んでから、智恵は自分で自分の声の大きさにびっくりしてしまった。大人になってからこんな風に感情的になって言葉をぶつけたことはない。慎司も智恵の方を振り返り驚いたような顔をしていた。


「もうちょっと頑張ろうよ。2人でさ」

「そっか……そうだよな……」


 その時、2人の間に一粒の白い粉雪が舞い降りた。


「冷えると思ったら……雪」

「寒いしさっさと戻ろうぜ!」


 繋いだ手を急に引っ張られ、体勢を崩しそうになった智恵を慎司が受け止める。


「ちょっと何するの!」

「だから2人で頑張るんだろ?」

「2人でって……私、そういう意味で言ったんじゃないのに!」

「おいおい期待させておいてそりゃないだろ。だいたい智恵の方から誘ってくれることって皆無じゃん。その上なんだよさっきの男は。智恵も満更でもないって顔しちゃってさ。俺だってそんなに経験ある方じゃないし、これでも精一杯気を遣ってんだぞ? 仕事で忙しいのは分かるけど、たまには誘ってほしいしもっとエロいことしたいんだよ」

「ああーもう! せっかくいい話してたのに台無し……馬鹿、最低!!」

「馬鹿でいいよ。ん? もしかしてこれが姫初めってやつか?」

「年が明けたら普通は明けましておめでとうって言うの!」

「分かった分かった」


 次から次へと降り続く雪の中、2人の後方で柔らかな光がふわりと弧を描いて舞い、一筋の尾を引きながら雪を吐き出し続けている灰色の天に向かって昇っていった。

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