随分綺麗な肌になりましたのね。
伯爵令嬢リラーナは学園の廊下を歩いていた。3階の廊下の窓から中庭を見下ろせば、この国の王女と常に王女と行動を共にする専属侍女に、リラーナの婚約者であるアルヴァンが一緒にいた。王女とアルヴァンは談笑をしているのか、何やら盛り上がっている。いや、よく見ると王女は愛想笑いだ。貴族の娘だからこそ分かる表情だった。
「婚約者を差し置いて、他の女性と仲良くしようとするなんて、本当に侯爵令息なのかしら…。」
小さな独り言がリラーナの口から零れ落ちた。慌てて口を噤み、周囲をさりげなく見渡したがどうやら誰も聞こえなかったようだった。
危なかった。危険な独り言には気をつけないと。学園には様々な派閥の生徒がいるのだから。
リラーナの婚約者アルヴァンは、代々王家に仕える騎士の家である。伯爵家の生まれであるリラーナよりも貴族位が上の侯爵令息だ。
リラーナは貴族令嬢らしく政略で決められた婚約に否やは唱えなかった。上位の家に嫁ぐことが決まった彼女には、未来の侯爵家の女主人に相応しくなるよう厳しい教育を耐え抜いてきた。礼儀、振る舞い、刺繍、執務。国の流行を作る女性貴族に必要なことは全て詰め込んだ。
全てはアルヴァンのために。
別にリラーナはアルヴァンに恋をしているという訳ではない。情はあるが、愛はないのだ。ただ貴族令嬢として当たり前のことをしなければならないだけで。それが貴族というものだから、リラーナはそういうものと受け入れている。
アルヴァンも同じだろう。ただアルヴァンは受け入れてるが割り切れていないのか、あからさま過ぎる態度であるから、少しぐらいは隠す努力をしろと文句を言いたくなる。
「私には愛を捧ぐお方がいる。」
アルヴァンと婚約することになり、初めて会ったときに言われた言葉にギョッとしたのはリラーナだけではない。同席していたリラーナのメイドも「このお方は何を仰っているのかしら?」という目でアルヴァンを見ていたのは今でも覚えている。
アルヴァンが愛を捧ぐ相手はこの国の王女であり、将来騎士となったアルヴァンが仕えることになるお方でもある。
アルヴァンは王女に恋しているというのだ。
勿論王女にはアルヴァンよりも相応しい高貴な方と婚約しているし、アルヴァンもそのことは知っている。その上で王女の傍に侍りたいと申すのだ。
開いた口が塞がらなかった。そして何も言わないリラーナに理解が得られたと思ったのか、アルヴァンは行動に出たのだ。
アルヴァンは王女の傍に控えていることが多い。それは王女の護衛という名目もあるが、9割はアルヴァンの私情込みの行動だろう。鍛錬の時間でさえ王女の護衛の時間としてあてがっているのだ。
アルヴァンとしては隠しているかもしれないが、周囲から見ればバレバレであるほど稚拙な態度であった。
これが将来の結婚相手となるリラーナは嘆きたくなった。というか実際に嘆いた。
学園でできた高位貴族出身のお友達はリラーナに同情しているのがせめてもの救いだろうか。彼女らは各家の未来の女主人として教育を受けてきた猛者だからこそ、他人事ではいられなかったのだろう。
彼女たちはリラーナのためにわざわざ王女に奏上しに行ってくれたのだ。リラーナは未来の侯爵夫人であるが現状は伯爵令嬢なため、リラーナの立場では直接王女に会いに行くことなど難しかった。
そして王女もまた、アルヴァンが常日頃自分の傍に居続けることに内心辟易していたことが明言されたのだ。
騎士家系の貴族子息が護衛として自分の傍に控えることは何も不自然ではないが、執着のようなものを感じていた王女は2人きりにならないよう侍女も控えさせていた。
婚姻前に手籠にされては王女の価値は失墜する。共に行動する侍女もまた、アルヴァンとは別の騎士家系の生まれの貴族令嬢だったため、護衛を兼ねさせていた。これでアルヴァンが蛮行に及ぶ可能性は低くなったし、実際アルヴァンはその侍女のことを鬱陶しい存在として認識していた。
気持ち悪い男は自分の周囲にはいらない。できることならアルヴァンを遠ざけたい。
というのが王女の本音だった。
アルヴァンへの王女の反応が明確に分かったため、王女とリラーナは手を取り合った。もはや侯爵子息としても相応しくないアルヴァンを未来の社交界から排除するために一計を打つことにしたのだ。
その日もアルヴァンは王女の傍にいた。
本日の王女はお出掛けになりたいと言う。ただしお忍びで出掛けたいとの希望だったので、学園と同じように王女と侍女とアルヴァンの3人で出掛けることになった。
リラーナは侯爵家でお勉強中だから、あとで何か適当な土産でも買ってきてやろうか。そうだな、いつも私の代わりに執務に励んでいるから、万年筆なんてどうだろう。
お忍び用の地味な馬車に3人で乗り込み、目的地に向かって出発していると、道中顔を隠した複数人の盗賊に襲われた。 お忍び用の地味な馬車に3人で乗り込み、目的地に向かって出発していると、道中、顔を隠した複数人の盗賊に襲われた。
「王女殿下、お下がりください!」
アルヴァンは馬車から飛び降り、腰の剣を抜き放った。
盗賊は三人。いずれも粗末な身なりをしていたが、その構えには隙がなかった。
最初の一人が剣を振り下ろす。アルヴァンはそれを受け止め、反撃しようとした。だが、腕に伝わった衝撃に顔を歪める。
重い。
以前なら難なく受け流せたはずの一撃が、思いのほか腕に響いた。
続けざまに横から刃が迫る。慌てて身をひねったものの、体勢を崩したアルヴァンの足がもつれた。
「くっ……!」
なんとか剣を振るう。しかし、その一撃は盗賊の剣に弾かれ、乾いた金属音を響かせただけだった。
鍛錬を重ねていた頃なら、こんな相手に後れを取るはずがない。
そう思った瞬間、目の前の盗賊が踏み込んできた。
アルヴァンは反応が遅れた。
剣を持つ手に強い衝撃が走り、次いで腹部に鈍い痛みが突き抜ける。息が詰まり、膝が折れた。
倒れ込む間際、後頭部に衝撃を受けたアルヴァンの意識は、そこで途切れた。
「国王陛下の御前だ。即刻目覚めよ。」
アルヴァンが気がついたときには、王城の謁見の間に転がされていた。周囲には国王陛下と王妃殿下、王女に侍女、アルヴァンの両親やリラーナまでいて、皆一様にアルヴァンを冷たい目で見ていた。
何が起きたのか把握できていないアルヴァンを置いて、国王は重々しく口を開いた。
「侯爵令息アルヴァン。其方の王女護衛の任を解任する。其方の実力では我が娘を任せられぬことが分かったのでな。」
アルヴァンにとっては死刑宣告にも等しい言葉だった。
「王女の傍に控えるのは鈍ではいけぬ。其方は日々我が娘に侍るだけだったという報告を受けておる。」
アルヴァンはギュッと拳を握りしめた。盗賊に遅れをとったのは事実であったから。そしてハッとした。
「王女殿下はあの後ご無事だったのですか…⁈」
国王は嘲笑するようにアルヴァンを見た後、フーッと溜息をついた。
「無事に決まっておるであろう。なぜならあの盗賊は、其方への『訓練』なのだから。」
息が止まった。『訓練』?どういうことだ?私を謀ったのか?
「盗賊役を担ったのは其方の家の連中だ。其方はそのことにまだ気づいていなかったのか?其方の両親の協力の元、『訓練』を行ったのだ。勿論王女の許可も得た上でな。」
ここで初めて王女が口を開いた。
「私の護衛だというなら、相応の能力を見せてほしかったのよ。貴方はいつも私の傍にいたのだから、一体いつ鍛錬をしているのか不思議だったのよ。きっと寝る間を惜しんで鍛錬をしているのだろうと思っていたのに、結果はこの様子。残念でしかないわ。」
王女はそれっきり口を閉じて、もう用はないと言いたげに退出して行った。
「さあ、あとは侯爵家の方でこの者の処遇を判断するといい。鍛え直すか、それ相応の処分を下すか。好きにするがいい。」
そうしてアルヴァンは両親やリラーナに連れられて、侯爵家へと帰還したのだ。帰宅途中の馬車は誰も言葉を発さず、ただただアルヴァンを責め立てるかのように視線を寄越すだけだった。
帰宅して早々にアルヴァンは父から断種の上で勘当と言われた。母は新たな侯爵家嫡男となるアルヴァンの弟エヴァンスの家庭教師を探すと言って、アルヴァンのことなど見向きもせずにどこかへ行った。
「アルヴァン。騎士として醜聞に塗れたお前にはもう何も期待できん。貴族令息としても失敗だとリラーナ嬢より報告を受けている。だがお前は立派なことに王女殿下への執着は周囲が見て危険だと判断するぐらいにはある。それにお前は侯爵家の血を引いている。将来我が家が認知してないお前の子を侯爵家の血を引く者だと騒ぎ立てられたら面倒で叶わん。故の断種だ。その上で何処へなりと行くがいい。お前は本日より平民だ。」
そう吐き捨てて父はこれ以上汚物とは同じ空間に居たくないとばかりに部屋を出て行った。残ったのはリラーナと部屋の隅で待機している数名の使用人だけであった。
リラーナは、リラーナだけは自分を見捨てない!と泡沫の希望を持って、視線で縋り付いた。
そんなアルヴァンの様子を見て、リラーナはふぅっと短く溜息を吐いた。
「アルヴァン様。いいえ、平民のアルヴァン。私は貴族の娘として生まれました。お互いに愛はなくとも情を持っていれば、政略相手として文句を言うつもりはありませんでした。それが貴族というものだと教わったからです。けれど、貴方は貴族の生まれだというのに、愛を優先しました。その時点で貴方は貴族令息として相応しくなかったのです。正直、それだけならばまだ私が影ながらフォローを行えばなんとかなる範囲ではありました。しかし、貴方は騎士の役目すら放棄したのです。これではいくら私が庇い立てても、貴方を助けることなどできません。それに、そもそも貴族は平民と結婚できません。私は貴族令嬢としての誇りがあります。貴方のためにその誇りを捨てることなどできやしないのです。私はこの家に嫁ぐためにいるのです。その相手は貴方でなくても構いません。私は貴族として生き続けたいのです。それではご機嫌よう。もう二度と顔を見せないでくださいませ。」
リラーナは一気にアルヴァンに囃し立てると部屋を立ち去ろうとした。ドアの前に立ったとき、アルヴァンの方には振り向かずに一言だけ告げた。
「ああ…そういえば随分綺麗な肌になりましたのね。」
そうしてリラーナもアルヴァンの前から去った。
アルヴァンは一瞬何を言われたのか分からなかった。自分の肌が綺麗?騎士として鍛錬を重ねてきた剣ダコと細かな傷塗れの筋肉質な肌が?
けれど自分の手をよくよく見てみれば、自分が遠い過去に見てきた傷だらけの肌はどこにもなかった。鍛錬をサボった結果、男性特有の筋肉質な手ではあったものの武人らしい武骨さが削がれていた。肌は文官系の家の貴族令息らしい滑らかな肌へといつの間にか生まれ変わっていた。
己の変化を受け入れられず呆然としていたら、いつの間にか家から叩き出されていた。下半身に少し違和感があるから呆けている間に断種行為を受けさせられたのだろう。
行く宛のないまま、アルヴァンは歩き出すしかなかった。
リラーナはその様子を窓から一瞬だけ見て、新たな婚約者となったエヴァンスとのお茶会に行こうと窓に背を向けた。




