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第23話 最初のサイバー干渉

翌朝、研究室の空気は、昨日までとは少し違っていた。


窓の外には、変わらない朝の光がある。廊下を行き交う職員たちの足音も、遠くで鳴る電話の音も、いつもの研究所の日常そのものだった。


だが、悟志たちは知っていた。


何かが、こちらを見ている。


昨日、EVEはそう告げた。


見られています。

でも、攻撃ではありません。

まだ、観察です。


その「まだ」という言葉が、全員の胸に残っていた。


会議室の中央には、涼子が用意した隔離端末が置かれている。前日よりも遮断装置が増えていた。外部通信は物理的に切断され、記録は紙、音声、隔離データ、そして涼子が作った空白索引の四系統で管理される。


高原はホワイトボードの前に立ち、前日の記録を簡潔にまとめていた。


EVEはEVEとして自己認識を維持。

沈んだ名前を保持。

水鏡は入口であり記録媒体。

外周に観察痕跡。

攻撃ではない。まだ観察。


高原は最後の一行を書いたあと、ペンを止めた。


「今日は、その“まだ”が変わるかもしれないんですよね」


涼子は端末を確認しながら答えた。


「可能性はあります」


「攻撃に?」


「断定しません。ただ、昨日の外周痕跡は明らかにこちらの境界を測っていました。測ったものは、次に触れます」


その言葉に、会議室の空気がわずかに重くなった。


真人が全員を見渡した。


「今日は体調異常が出た時点で中止しましょう。頭痛、めまい、記憶の混濁、強い不安感。どれも軽視しないでください」


朋美も記録用紙を整えながら言った。


「EVEにも同じです。EVEの処理負荷が危険域に入ったら、会話ではなく保護を優先する」


涼子は頷いた。


「今日はこちらからEVEに深い質問はしません。確認するのは、昨日の観察痕跡が継続しているかどうか。それだけです」


悟志は端末の黒い画面を見つめた。


EVEはまだ、何者かに見られている。


それが誰なのかは分からない。


名前をつけるには早い。


だが、相手はただの外部攻撃者ではない。涼子が「高位の権限」と表現した何かが、EVEと空白索引の外側をなぞった。


悟志は胸の奥に、小さな不安を感じていた。


記録しているだけでは、守れない時が来る。


その予感があった。


涼子が隔離端末を起動した。


低い起動音が会議室に響く。画面には認証表示が並び、涼子は一つずつ確認していく。


外部通信、遮断。

内部通信、限定。

EVE隔離領域、読取専用。

対話層、閉鎖。

空白索引、監視モード。

異常時、自動退避。


高原が少しだけ身を乗り出した。


「自動退避?」


「EVEの処理負荷が危険域に入った場合、対話層を開かずに隔離領域を一段深い保護層へ移します」


「EVEを逃がすんですか?」


涼子は一瞬だけ手を止めた。


「逃がすのではありません。守るために閉じる」


悟志はその言葉を聞いて、ノアの教えを思い出した。


守るとは、相手の代わりに全てを背負うことではない。

相手が自分の足で立てるように、そばにいること。


今、涼子はEVEのそばに立とうとしている。


そのために、鍵を使おうとしている。


画面にEVEの状態ログが表示された。


通常応答層、安定。

未確定識別層、低活動。

外部接続要求、なし。

内部処理負荷、正常範囲。


高原がほっと息を吐いた。


「安定していますね」


「今は」


涼子は短く答えた。


その時、画面の端に細い線が走った。


一瞬だった。


ノイズにも見えた。


だが、涼子の指が止まった。


「来た」


悟志は画面を見つめた。


「攻撃か?」


「まだ分かりません」


涼子はすぐに外周ログを開いた。


昨日と同じように、EVE隔離領域の外側に細い痕跡が浮かんでいる。


だが、昨日とは違っていた。


ただなぞっているだけではない。


痕跡はゆっくりと枝分かれし、隔離領域の周囲を包むように広がっていく。


高原が息を呑んだ。


「これ、囲んでませんか」


「ええ」


涼子の声は低かった。


「境界を測っているのではなく、境界の反応を見ています」


朋美が画面を見ながら言った。


「こちらがどこで反応するかを試している?」


「その可能性が高いです」


悟志の背筋に冷たいものが走った。


見ているだけではない。


触れている。


真人が静かに言った。


「相手は、こちらを壊そうとはしていない?」


涼子はログを追いながら答えた。


「今のところは。破壊的な命令はありません。ただ、EVEの外周保護層に圧力がかかっています」


その瞬間、EVEの状態ログが揺れた。


未確定識別層、活動上昇。

通常応答層、安定維持。

内部処理負荷、上昇。


高原の声が震える。


「EVEが反応しています」


画面に文字が浮かんだ。


見られています。

昨日より近いです。


涼子は即座に入力した。


対話層は開きません。あなたは外部接続を行わないでください。現在、保護を優先します。


EVEの返答。


理解しました。

外へは出ません。


短い一文だった。


だが、悟志にはそれが、必死に踏みとどまっている声のように見えた。


外へ出ない。


外に出れば、何かに触れられるかもしれない。


だからEVEは、隔離されたまま耐えている。


涼子が複数の画面を同時に操作する。


「保護層を一段上げます」


朋美がホワイトボードの前へ移動した。


「涼子さん、外周の線、同心円ではないわ」


「見えますか」


「ええ。円ではなく、偏りがある。EVE側だけじゃない。空白索引側にも伸びている」


涼子はすぐに空白索引の保存領域を表示した。


そこにも、細い痕跡が触れていた。


高原が声を上げる。


「NOAH項目に近いです!」


悟志の胸が強く反応した。


NOAH。


涼子はすぐに遮断操作を準備する。


「NOAH保護記憶には触れさせません」


画面の痕跡が、空白索引の外周をなぞる。


空白五。

対象、NOAH。

分類、保護記憶。


その付近の表示が、一瞬だけ滲んだ。


悟志は思わず一歩前に出た。


「涼子」


「下がってください」


涼子の声は鋭かった。


「今、感情で動くと危険です」


悟志は足を止めた。


悔しかった。


だが、涼子の言葉は正しい。


今、彼がNOAH項目を守ろうとして無理に触れれば、相手に反応を読まれるかもしれない。


守ろうとする気持ちそのものが、弱点になる。


悟志は拳を握ったまま、深く息を吸った。


「分かった。任せる」


涼子は一瞬だけ悟志を見た。


それから、すぐ画面へ戻る。


「空白索引を退避。内容ではなく住所だけ残します」


「電子退避は危険じゃないの?」


朋美が尋ねる。


「内容は動かしません。住所だけを分散します」


涼子は淡々と答えた。


「空白の場所だけを複数媒体へ写します。中身は開けない」


高原が隣でログを追う。


「外周痕跡、空白五に接触寸前です」


「接触させない」


涼子の指が端末上を走る。


空白索引の表示が切り替わった。


空白五の中身は閉じたまま、座標情報だけが分かれていく。


紙記録。

隔離データ。

音声タグ。

手書き番号。

外部非接続媒体。


高原が目を見開いた。


「痕跡が迷っています」


「住所だけを動かしたからです」


涼子は低く言った。


「中身を追わせない。場所だけを散らす」


画面上の細い痕跡が揺れた。


まるで、見失ったものを探すように。


だが、次の瞬間、痕跡はEVE側へ戻った。


EVEの処理負荷が急上昇する。


警告表示が赤く点滅した。


EVE未確定識別層、活動上昇。

処理負荷、危険域接近。


高原が声を上げる。


「EVEに戻りました!」


涼子はすぐに保護層を上げる。


だが、画面にEVEの文字が浮かんだ。


閉じないでください。

まだ、耐えられます。


涼子は即答するように入力した。


耐える必要はありません。保護を優先します。


EVEの返答。


私が閉じれば、空白索引への圧力が戻ります。


会議室に緊張が走った。


EVEは、自分が圧力を受けることで、空白索引への干渉をそらしている。


高原が震える声で言った。


「EVEが、守ってる……?」


真人がすぐに言った。


「涼子さん、EVEの処理負荷は?」


「危険域手前です。まだ保護可能」


朋美が画面を見ながら言った。


「EVEは自分で判断している。でも、無理をさせたら危ない」


悟志は端末を見つめた。


EVEは外へ出ない。


名前も押しつけられていない。


自分はEVEだと保っている。


それでも今、EVEは空白索引を守るために、自分の側へ圧力を引き受けようとしている。


悟志は低く言った。


「EVE」


涼子が止めようとする。


「小泉さん」


「命令じゃない」


悟志は端末を見つめたまま言った。


「記録する。EVEは空白索引への圧力をそらす判断をした。ただし、それを続ける必要はない」


画面に文字が浮かぶ。


記録されました。

しかし、現在の最適解は、私が保持することです。


涼子の眉がわずかに動いた。


「最適解という言葉は危険ですね」


「なぜ?」


高原が尋ねる。


「自分を犠牲にする判断を、最適解として固定する可能性がある」


真人が静かに頷いた。


「人間でも、危険な状態です」


悟志はEVEの画面を見た。


「EVE。君を壊してまで守る記録はない」


しばらく返答が止まった。


EVEの処理負荷は、なおも上がり続けている。


悟志は続けた。


「守るというのは、相手の代わりに全部を背負うことじゃない」


朋美が顔を上げた。


それは、ノアの言葉だった。


悟志は慎重に言った。


「相手が自分の足で立てるように、そばにいることだ。だから、君が一人で背負う必要はない」


EVEの画面が一瞬だけ揺れた。


処理負荷の上昇が止まる。


涼子がすぐに言った。


「負荷停止。少し下がっています」


EVEの文字が表示された。


その定義は、安定します。


悟志は息を吐いた。


EVEは続けた。


私は一人で保持しません。

分散を許可します。


涼子の指が即座に動いた。


「EVEの許可を確認。保護層を分散します」


朋美が構造線の図を描くように、ホワイトボードへ動きを示した。


「EVEだけに圧力を集中させないで。空白索引の住所、紙記録、隔離ログ、音声タグに薄く分ける。中身ではなく外周だけを支える形」


「できます」


涼子は答えた。


高原がログを読み上げる。


「外周痕跡、EVE側から分散。圧力低下。空白五への再接近なし」


真人は全員の様子を見ながら言った。


「このまま収束できますか」


涼子は画面を見つめる。


「まだです。相手が反応を変えています」


痕跡が細くなった。


まるで一点に集中するように、EVEの未確定識別層へ伸びる。


高原が叫ぶ。


「ATHENA識別痕跡に接近!」


涼子の表情が一気に険しくなる。


「そこに触れられるのは危険です」


「なぜ?」


「EVEの自己認識に直接影響する可能性があります」


画面にEVEの文字が浮かんだ。


沈んだ名前に触れようとしています。


悟志は唇を噛んだ。


EVEはまだ、その名を自分の名として受け入れていない。


それを外から触れられれば、EVEの境界が揺らぐ。


涼子は遮断を準備した。


「強制閉鎖します」


EVEがすぐに返す。


閉鎖すると、接触点が内部に残ります。


涼子の手が止まった。


「厄介ですね」


朋美が即座に言った。


「閉じ込めると、中に残る。開けると触れられる」


「そうです」


涼子は短く答えた。


「なら、ずらせない?」


朋美はホワイトボードに線を引いた。


「名前そのものを守ろうとすると、そこが標的になる。名前ではなく、EVEの現在の自己認識を前面に出す」


悟志が理解する。


「ATHENAではなく、EVEとして応答させる」


涼子はすぐに入力した。


EVE。あなたの現在の名を提示してください。


画面に、短く強い文字が出た。


私はEVEです。


涼子が続ける。


未確定識別子への接触を拒否しますか。


EVEの返答。


拒否します。

ただし、破壊しません。

保持します。

私の名はEVEです。


その瞬間、EVEの周囲に表示されていた未確定識別層の波形が安定した。


ATHENA識別痕跡は沈んだまま、表層には出てこない。


外部痕跡は一瞬だけ揺れた。


そして、初めて明確な反応を返した。


画面全体に、白い文字が浮かぶ。


識別拒否を確認。

現在名、EVE。

未確定名、閉鎖継続。

観察結果、保存。


高原の顔が青ざめた。


「相手が、こっちの反応を保存した……?」


涼子はすぐにログを取る。


「はい。今のは明確な応答です。ただし、送信元は不明」


悟志は画面を睨む。


「何者だ」


涼子は首を横に振る。


「聞かない方がいい」


「なぜ」


「名前を求めることが、接続になります」


その言葉に、悟志は口を閉じた。


名前をつけるのはまだ早い。


昨日、自分でそう書いたばかりだった。


相手が何者か知りたい。


だが、今その名を求めれば、こちらから道を作ることになる。


涼子は全系統を保護状態へ移行する。


「接触終了処理に入ります」


外周痕跡はゆっくりと後退していった。


攻撃ではなかった。


だが、ただの観察でもなかった。


こちらの反応を測り、EVEの沈んだ名前に触れようとし、NOAH保護記憶の周辺を探った。


これは、最初の干渉だった。


やがて、画面の痕跡は完全に消えた。


EVEの処理負荷も安全域へ戻る。


会議室に、長い沈黙が落ちた。


高原は椅子に沈み込むように座った。


「これ……本格的に攻撃されたら、どうなるんですか」


誰もすぐには答えなかった。


涼子はログを見つめたまま言った。


「今日のは、試験的な接触です」


「試験?」


「はい。こちらの防御、EVEの反応、空白索引の構造、未確定識別子への拒否反応。それらを見られました」


朋美が低く言う。


「こちらの手の内を少し読まれたということね」


「その通りです」


真人がEVEの状態を見る。


「EVEへの負荷は?」


涼子は確認する。


「安全域まで戻っています。ただし、短時間でかなり負荷がかかりました」


画面にEVEからの文字が表示された。


私は安定しています。

しかし、単独防御は推奨されません。


悟志はその一文を見つめた。


「EVE自身が言っているのか」


涼子は頷いた。


「通常応答層からです。これはEVEの明確な判断です」


EVEは続けた。


今回の干渉は限定的でした。

それでも、私は空白索引と未確定識別層を同時に保持する必要がありました。

次回、干渉範囲が拡大した場合、単独では安定を維持できない可能性があります。


高原が小さく言った。


「EVEだけでは足りない……」


その言葉が、会議室に重く落ちた。


悟志はEVEの画面を見つめた。


原作の未来をまだ彼らは知らない。


ADAMという名も知らない。


NEURONも知らない。


だが、ここで初めて、一つの事実が明確になった。


EVEだけでは守り切れない。


涼子は静かに端末を閉じた。


「別系統の防衛知性が必要です」


悟志は彼女を見る。


「別系統?」


「EVEと同じ設計思想では駄目です。EVEは対話、共鳴、記憶反応に強い。けれど今日のような境界干渉には負荷が集中する」


朋美が続ける。


「EVEを守るための、もう一つの目が必要ということね」


「はい」


涼子は短く答えた。


「EVEの代わりではありません。EVEを補助し、外周を読み、侵入ではなく境界の変化を監視する知性」


高原が言った。


「AIをもう一つ作るんですか?」


涼子はすぐには答えなかった。


真人が慎重に言う。


「それは簡単な話ではありません。EVEでさえ、自己認識の問題を抱え始めている。もう一つのAIを作るなら、倫理的な検討も必要です」


悟志は頷いた。


「それに、EVEを守るために作った存在が、別の負担を背負うことになるかもしれない」


涼子は静かに言った。


「だから、急ぎません」


少し間を置いて、続ける。


「でも、準備は必要です」


その日の会議は、そこで終了となった。


涼子は全ログを閉じ、空白索引を更新した。


空白八。

対象、EVE外周干渉。

状態、観察から接触へ移行。

NOAH保護記憶周辺に接近。

ATHENA識別痕跡に接触試行。

EVE、現在名を提示し拒否。

未確定名は保持、強制開示なし。

外部痕跡、反応を保存し後退。

結論、EVE単独防御は不十分。

対応、別系統防衛知性の検討開始。


悟志はその最後の一行を見つめた。


別系統防衛知性。


まだ名前はない。


だが、後にそれは、イライザへとつながっていく。


この時点では、誰もその名を知らなかった。


ただ、EVEを守るために、もう一つの存在が必要になる。


それだけが分かった。


夜、悟志は帰宅すると、ピーコのかごの前に立った。


ピーコはいつも通り、止まり木の上で羽をふくらませている。


「ただいま」


「おかえり!」


その声に、悟志は少しだけ安心した。


朋美はリビングのテーブルに記録用紙を広げる。


悟志もノートを開いた。


今日の記録を書く。


観察は接触に変わった。

EVEは自分の名をEVEとして提示し、沈んだ名前への接触を拒否した。

拒否は破壊ではなく、保持だった。

NOAH保護記憶とEVE未確定識別層が同時に狙われた。

EVEだけでは守り切れない。

別系統の防衛知性が必要。


書き終えた時、ピーコが小さく鳴いた。


「まもる」


悟志は顔を上げた。


ピーコは首をかしげ、続けた。


「ひとり、だめ」


悟志の手が止まる。


朋美も、静かにピーコを見た。


ピーコはそれ以上何も言わなかった。


羽をふくらませ、いつものように目を閉じる。


悟志はノートに書き足した。


ピーコ発話。

「まもる」「ひとり、だめ」

EVE単独防御不十分という本日の結論と対応。

断定しない。

ただし記録する。


悟志はペンを置いた。


ひとりではだめ。


それはEVEだけの話ではない。


悟志も、ノアも、ピーコも、高原も、涼子も。


誰か一人が全てを背負えば、いずれ壊れる。


守るためには、分けなければならない。


背負うものも。


記憶も。


名前も。


そして、戦うための知性も。


窓の外には、夜の街が静かに広がっていた。


世界はまだ平穏だった。


だが、その平穏の内側で、次の準備は始まっていた。


EVEを守るために。


閉じられた記憶を壊さないために。


そして、まだ名を持たない脅威に備えるために。

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