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あなたを褒める仕事をしています  作者: えんびあゆ
小川正平編

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8/22

第8話 褒められる年齢ではない[1]

朝、町工場のシャッターを上げる音は正平にとって目覚ましのようなものだった。


金属が擦れる、少し鈍い音。

それを聞くと、体が勝手に動く。

目が覚めて、今日も一日が始まる。


小川正平おがわしょうへいは、六十九歳だった。


若い頃なら、胸を張って「まだ現役だ」と言ったかもしれない。

だが今は、そういう言い方をしない。

現役かどうかは、自分で決めることじゃない。

周りが決めるものだと、いつの頃からか思うようになった。


工場の中は、いつもと同じ匂いがした。

油。鉄。少し焦げたような埃。

長年染みついたそれは、もう「匂い」として意識することもない。


それでも、季節の匂いだけは少し違う。

冬は冷えた鉄が息を吸うみたいに冷たく、夏は油が粘りを増して汗と混ざる。

今日はその中間で、朝の空気がまだ少し尖っていた。


正平は作業着の袖口を引き、手袋をはめる。

指先は少しだけ遅い。若い頃のように、起きてすぐに「動く」わけではない。

だが、動き始めれば体は覚えている。

機械の横に立つと、足の裏がその場所の重みを思い出す。


若い社員が、数人、先に来ていた。

挨拶を交わす声はあるが、それ以上の会話はない。


「おはようございます」

「おはよう」


短いやり取り。声の温度は悪くない。

ただ、そこに雑談が混じらない。

昔は、もっと話していた気がする。


仕事の段取り。

失敗談。

どうでもいい雑談。

昨日のテレビ。近所の飯屋。誰の車が故障した、なんて話。


今は違う。

彼らは彼らで仕事をしている。自分は自分の仕事をしている。

それでいい。そう思ってきた。


正平は現場に立つ。

機械の音を聞く。

微妙な振動を手のひらで確かめる。


この感覚だけは、まだ衰えていない。

若い連中より分かることもある。


機械が「嫌がる」音。

刃が「逃げる」瞬間。

金属が「噛む」手前の、わずかな気配。


それを誇ることはない。

教えることもしない。

求められたら答える。それだけだ。


――仕事は、見せびらかすものじゃない。

昔からそうだった。黙ってやる。

できて当たり前。

当たり前を続けてきた者に、派手な言葉は必要ない。


そう、思っていた。


親方に言われた言葉がある。


「仕事はできるのが当たり前だ。褒められるうちは、まだ半人前だ」


正平はその言葉を疑わなかった。

褒められるのは、若い頃だけ。

一人前になれば、評価されなくなる。

それは自然なことだ。


だから、誰も自分を褒めなくなったことに、不満を感じたことはなかった。


……なかった、はずだった。


午前の作業が一段落し、正平は事務所に戻った。

机の上には書類が積まれている。

納品書。請求書。見積もり。


工場の仕事は、機械だけじゃ回らない。

紙と数字で回っている。


ペンを握って、項目を埋める。

手書きの文字が少しだけ乱れる。

老眼鏡をかけ、外し、またかける。

それを誰にも見られたくないと思う自分がいるのが、少し滑稽だった。


最近、自分が「評価されない」ことよりも、「評価される場にいない」ことのほうが気になっている自分に気づいた。


若い社員が褒められている。

成果を出した。

新しい機械を覚えた。

取引先と上手くやった。


休憩のとき、若い社員たちが笑っている。

話題の中心にいる者がいて、周りがそれを受ける。

その輪に正平が入ることはない。

入ろうともしない。

入る必要がないと、ずっと思ってきた。


それを見て羨ましいとは思わない。

ただ、その輪の外に自分がいることを、初めてはっきり自覚した。

それだけだ。それだけの話なのに――。


胸の奥が、わずかに重い。


――俺は、もう、褒められる側じゃない。


そんな気持ちになる。

しかし、それは事実だ。

今さら誰かに「よくやりました」と言われたいわけじゃない。


――それなのに。


「あの、小川さん」


工場の隅で、若い社員が声をかけてきた。

新しい治具の取り付け方が分からないらしい。

正平は近づき、説明するでもなく、ただ手を動かして見せた。


「ここ。角度。まっすぐじゃない。こう」

「……こう、ですか」

「そう。これで、無駄が減る」


若い社員は「ありがとうございます」と頭を下げた。

その「ありがとうございます」は礼儀で温度はあるが――評価ではない。


昔なら、それで十分だったはずだ。

必要なときに必要とされる。それが仕事だ。

だが、今日の正平は、そこにわずかな空白を感じてしまった。


――礼はある。

――でも、それ以上はない。

――当然だ。俺は教える側だから。


頭では分かっているのに、胸の奥がついてこない。

それが何なのか、正平には言葉にできなかった。

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