最終話 あなたを褒める仕事をしています
通知音は、突然だった。
三枝しのは、湯を沸かしている途中でそれに気づいた。
キッチンの隅に置いたスマートフォンが、机の上でわずかに震える。
反射的に振り向いて、すぐに視線を戻した。
——まだ、いい。
火を止め、カップに湯を注ぐ。
白い湯気が立ちのぼり、いつものように数秒で消える。
以前なら、通知音が鳴った瞬間に手が動いていた。
誰からの連絡か。
依頼か、キャンセルか、ただの問い合わせか。
今は、違う。
カップを持って椅子に座り、深呼吸を一つしてから、ようやくスマートフォンを手に取る。
新規予約。
名前は知らない。
内容は短い。
「少し、話を聞いてほしいです」
しのは画面を閉じた。
拒否でも、承認でもない。
ただ、いったん閉じた。
――逃げていない。
――急いでもいない。
そのことを、今の自分がちゃんと分かっている。
予約を止めていた数日のあいだ、しのはほとんど何もしていなかった。
仕事用の資料も、過去のメモも、開いていない。
褒めのフレーズを書き溜めていたノートにも触れていない。
代わりに、よく歩いた。
意味もなく、遠回りをして帰る日が増えた。
公園のベンチに座って、誰かの話し声を聞いた。
自分とは関係のない笑い声や、愚痴や、沈黙。
誰も、しのを必要としていない時間。
それを、思ったより長く受け止められた。
ある日、散歩の帰りに、ふと昔の依頼者たちの顔が浮かんだ。
白石ゆい。
承認を求める癖に、自分で気づいた人。
小川正平。
六十九歳まで働いてきた事実を、「すごいですね」ではなく、ただの事実として置かれた人。
芹沢ひなた。
「今日ここに来た」と言われて、泣かずに笑った人。
芦原大地。
納得した理由を、最後まで言葉にしなかった人。
宮原蒼太。
「きょうは それ やめて」それだけで進んでいくことが出来た人。
佐藤美代子。
褒めを確認の手段としたが、届かなかった人。
どの人も、人生が変わったわけではない。
問題が解決したわけでもない。
それでも、それぞれの時間に、確かに「言葉が置かれた瞬間」があった。
しのは、その事実だけを思い出していた。
そして、どうしても一人、浮かんでしまう顔があった。
佐久間圭一。
――久間崎一会。
最後のセッションのあと、彼から連絡は来ていない。
それでいい、と分かっている。
彼は「報告」をして帰った。
それ以上のやり取りは、必要なかった。
けれど、しのは時折、SNSを開く。
彼の投稿は多くない。
仕事の愚痴も、前向きな宣言もない。
ただ、たまに。
夜勤明けらしい時間帯に、短い文章が上がる。
「今日は、まあまあだった」
それだけ。
いい日でも、悪い日でもない。
評価を求めるでもなく、褒めを欲しがるでもない。
その文面を見るたびに、しのは胸の奥が静かに動く。
——生きている。
それだけで、十分だと思えた。
再び、スマートフォンの画面を見る。
新規予約の通知は、まだ残っている。
しのは、予約画面を開いた。
そして、初めて条件欄に文字を打つ。
「今日は、私の話もしていいですか」
それは条件ではなかった。
許可を求めているわけでもない。
ただの、宣言。
送信。
予約は、確定した。
当日。
しのは、いつもより少し早く部屋を整えた。
机の上には、ペンとメモ帳。
以前と同じ配置。
でも、違う。
「褒めの言葉」を用意するためではない。
何かが起きたときに、書いてもいい場所として、そこに置いただけだ。
ノックの音がする。
「どうぞ」
扉が開き、依頼者が入ってくる。
緊張した様子の、見知らぬ人。
以前なら、ここで一瞬の間に判断していた。
この人は、どんな褒めを求めているか。
どこが一番、弱っているか。
今は、違う。
ただ、座る姿勢を見る。
呼吸の速さを感じる。
「今日は……」
依頼者が口を開く。
しのは、先に言った。
「その前に、一つだけ」
依頼者が戸惑ったように顔を上げる。
「今日は、私の話もしていいですか」
一瞬の沈黙。
そして、依頼者は小さく頷いた。
「……はい」
それだけで、十分だった。
セッション中。
依頼者が、ふと尋ねる。
「……褒め屋って、どんな仕事なんですか」
しのは、少しだけ考える。
以前なら、難しく説明していた。
自己肯定感がどうとか、言葉の力がどうとか。
今は、違う。
もっと、単純に一言で。
しのは、ほんの少しだけ笑った。
そして、こう答える。
「あなたを褒める仕事をしています」
依頼者は、少し驚いた顔をしてから、困ったように笑った。
「……そうなんですね」
それ以上、何も言わなかった。
しのも、続けなかった。
扉が閉まる。
部屋に、静けさが戻る。
しのは、椅子に座ったまま、深く息を吐いた。
褒め屋は、終わっていない。
でも、もう同じではない。
誰も褒めない時間を知っている。
誰にも褒められない時間を、通ってきた。
その上で、もう一度、言葉を扱っている。
それだけで、十分だ。
しのは、机の上のメモ帳を閉じる。
ペンは、置いたまま。
――まだ、書かなくていい。
今日も、言葉は渡された。
でも、それが何だったのかは、すぐに名前をつけなくていい。
空白が、残っている。
その空白に、耐えられる。
しのは、静かにそう思った。
褒め屋。
褒めること――否、言葉を渡すこと。
それは、もう肩書きではない。
今のしのにとっては、ただの、選び直した言葉だった。
だから、この仕事を続けるのだ。
そして今日も、これからも――。
――あなたを褒める仕事をしています。
―了―




