第48話 褒め屋は誰にも救われない[12]
しのは視線を落とした。
ペンも、メモ帳も、使わない。
ただ、聞くことに徹する。
「それって、たぶん……」
圭一は、少しだけ声を落とした。
「あなたが言ったことと、関係あります」
しのは顔を上げる。
「どの言葉ですか?」
圭一は、迷わず言った。
「“助けを求めるのは、判断です”」
しのの胸が、きゅっと縮んだ。
あの日、あの時、目の前の彼に言った言葉を思い出していた。
「俺、あれを……最初は、信じてませんでした」
「はい」
「でも……何度も思い出した」
夜勤明け。
一人の部屋。
スマホを握ったまま、天井を見ている時間。
「“判断”って言葉が、頭の中で残ってて……消そうとしても、残る」
圭一は、息を吐いた。
「俺、ずっと“情けない”って言葉で、自分を処理してきました」
処理、という言い方が、しのの心を刺す。
「でも、“判断”って言われた瞬間、自分の行動が、初めて“行動”になった気がした」
「……」
「弱いから来た、じゃなくて。限界だから逃げた、でもなくて」
圭一は、しのを見る。
「“選んだ”って言われたのが……」
そこで、言葉に詰まった。
「……怖かったです」
しのは、静かに聞く。
「選んだって言われたら、次も選ばなきゃいけない気がして」
圭一は、少しだけ笑った。
「でも……不思議と、逃げなくなりました」
「どういう意味ですか」
「……選んだなら、“何もしない”も、選んでいいって思えた」
しのの喉が、わずかに鳴る。
「だから、俺……」
圭一は、深呼吸をして言った。
「夜勤を、続けることにしました」
しのは、驚かない。
ただ、その続きを待つ。
「辞めようとも思いました。昼の仕事に転職して、“ちゃんとした人”になろうとも」
「はい」
「でも……それも、“逃げ”に見えた」
圭一は、ゆっくりと言う。
「逃げるのが悪いんじゃない。でも俺は、“選んで逃げる”って言えなかった」
沈黙。
「だから、続けることを選びました」
「理由は?」
「……まだ、分からないです」
正直な答えだった。
「でも、“続ける”って言葉を、自分で選んだのは、初めてでした」
しのの胸が、じん、と熱くなる。
圭一は、さらに続けた。
「それと……」
少し、言いづらそうに視線を逸らす。
「同僚に、声をかけました」
「声を?」
「急に来なくなった人が、前にいたんです。俺、何も言えなくて……」
「はい」
「この前、その人の連絡先がまだ残ってるのを見つけて」
圭一は、肩をすくめた。
「“元気ですか”って、それだけ送りました」
「返事は?」
「まだです」
圭一は、少しだけ笑った。
「でも……送ったこと自体が、俺にとっては、成果です」
その言葉が、しのの胸に深く沈んだ。
――成果。
評価じゃない。
成功でもない。
でも、確かに“前と違う”。
圭一は、一度だけ唇を噛んだ。
「……正直に言うと」
しのを見る。
逃げない視線だった。
「今日、ここに来てから……また、褒めてほしいって言いそうになりました」
しのの喉が、わずかに鳴る。
圭一は続ける。
「“変わりましたね”って。“すごいですね”って」
苦笑に近い表情。
「言われたら、たぶん……今日一日は、楽だったと思います」
しのの胸が、きゅっと縮む。
それは、彼女が一番よく知っている“効き目”だった。
「でも」
圭一は、首を振る。
「それを言われて帰ったら、また明日、同じ言葉を欲しがる気がして」
一拍。
「それが、ちょっと……嫌でした」
しのは、言葉を失う。
圭一は、静かに続ける。
「だから、今日は“褒められなかった日”として帰りたいんです」
その瞬間。
しのは、口を開きかけた。
何か、言おうとした。
慰めか、肯定か、仕事としての締めの言葉か。
けれど。
喉の奥で、それが止まる。
――違う。
これは、渡してはいけない。
そう直感した。
しのは、無意識にペンへ伸ばしかけた手を、机の上で止めた。
指先が、空中で迷う。
圭一は、その様子を見ていた。
「……大丈夫です」
優しい声だった。
「何も、言わなくて」
しのは、息を吸う。
吐く。
何も言わない、という選択を初めて“相手に委ねられた”気がした。
それは、褒め屋としてではなく。
一人の人間として。
圭一は、最後に言った。
「だから……あなたに、褒められたから、俺は、自分で決めました」
しのは、言葉を失った。
「感謝じゃないです」
圭一は、急いで付け足す。
「依存でも、ありません」
一拍。
「……ただの、報告です」
部屋に、静けさが落ちる。
しのは、何も言えなかった。
褒める言葉も。
評価も。
正解も。
――何も、用意していなかった。
圭一は、立ち上がる。
「今日は、それだけです」
深く、頭を下げる。
「聞いてくれて、ありがとうございました」
ドアに手をかける前、少しだけ振り返る。
「……俺、もう“褒めてほしい人”じゃないです」
それは、宣言でも、決別でもない。
ただの事実だった。
扉が閉まる。
蝶番の音だけが、部屋に残った。
しのは息を吸い直してから、ようやく自分の手が止まっていることに気づいた。
しのは、しばらくそのまま動けなかった。
机の上には、白紙のメモ帳。
ペンは、置いたまま。
――誰も、私を褒めない。
その事実が、初めて、痛くなかった。
むしろ。
胸の奥に、静かな波が残っている。
揺れている。
でも、壊れてはいない。
しのは、無意識にメモ帳をめくりかけて、止めた。
今日の依頼者の名前を書く欄。
日時。
要点。
どれも、書かなかった。
紙は、白いままだった。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……報告、か」
その言葉を、誰にも聞かれないように、
小さく呟いた。
しのは、最後まで褒めなかった。
意識的に、そうした。
それは、職務放棄ではない。
この一時間に対する、唯一の誠実さだった。
褒めなかったからこそ、この時間は「依頼」で終わらなかった。
売買でも、施術でもない。
一人の人間が、別の人間に「結果を返した」時間になった。
褒め屋として、これは失敗かもしれない。
それでも。
人としては、初めて“受け取る側”に近づけた気がした。
言葉ではなく――沈黙を。
評価ではなく――空白を。
それを受け取る準備が、ようやくできた。
そして、初めて思う。
――私は、何を渡していたのだろう。
――言葉か。
――判断か。
――それとも……空白か。
答えは、まだ出ない。
だが、“渡したあとに残るもの”があることだけは、確かだった。
――褒め屋は、誰にも救われない。
それでも、人は歩んでいく。




