第47話 褒め屋は誰にも救われない[11]
扉をノックする音は、以前より少しだけ落ち着いていた。
三枝しのは、机の上の時計を一度だけ見てから、
「どうぞ」と短く言った。
ドアが開く。
入ってきた男を見て、しのは一瞬、判断を迷った。
――佐久間圭一。
そう呼ぶべきなのか、
それとも、予約表に残っている名前――久間崎一会と呼ぶべきなのか。
迷ったのは一拍だけだった。
圭一は、名乗らなかった。
「……こんにちは」
声は低く、静かだった。
以前のような緊張はあるが、縮こまってはいない。
しのは声を聞いた瞬間に確信した。
あのときの“息の詰まり方”は同じだった。
「こんにちは」
しのは立ち上がらず、椅子を指し示す。
「どうぞ」
圭一は一礼して座った。
座り方が、前とは違う。
深く腰掛ける。
背もたれに、少しだけ体重を預ける。
落ち着いている。
――逃げる姿勢じゃない。
しのは、そう感じてしまった。
「今日は……」
圭一が口を開きかけて、止まる。
一度、息を吸う。
「今日は、褒めてもらいに来たわけじゃありません」
しのは、何も言わなかった。
否定も、確認も、しない。
ただ、聞く側の姿勢を取る。
圭一は、それを確かめてから続けた。
「報告したいことがあるって、連絡しました」
「はい」
しのは頷く。
しのは、胸の奥で小さな違和感を覚えていた。
いつもの流れと、少しだけ違う。
依頼者はたいてい、ここで言葉を探す。
どう褒められたいか。
何を肯定してほしいか。
あるいは、どこが駄目なのかを、遠回しに提示してくる。
けれど、久間崎一会、いや圭一は違った。
褒めを要求していない。
評価を求めてもいない。
安心させてほしい様子もない。
ただ、「報告」という言葉だけを置いて、そこに座っている。
――これは、依頼なのだろうか。
しのは、自分の職業意識が揺れるのを感じた。
褒め屋としての“立ち位置”が、少しだけ宙に浮く。
言葉を渡す側。
整える側。
出口を用意する側。
そのどれにも、圭一は当てはまっていない。
それでも、ここにいる。
——私は、今、何をする役なんだろう。
しのは、無意識のうちに「褒めの言葉」を探しそうになり、それを自分で止めた。
違う。
今日は、それを出す日じゃない。
そう直感した。
「……その」
圭一は視線を落とし、指先を軽く組んだ。
「正直、何を“成果”って言えばいいのか、まだ分からないんです」
「それでも?」
「それでも、言いたくて来ました」
しのは、少しだけ背筋を伸ばした。
「どうぞ」
その一言が、圭一の背中を少しだけ押した。
「……あの日のあと、すぐに何かが変わったわけじゃありません」
圭一は言った。
「夜勤は、続いてます。生活も同じです。部屋も、服も、交友関係も……正直、何も増えてません」
しのは、頷くだけだ。
「でも」
圭一は、そこで言葉を切った。
「……“自分を殴る回数”が、減りました」
しのの指先が、わずかに止まる。
圭一は続けた。
「前は、何かあるたびに、“どうせ俺なんて”って言ってました。声に出さなくても、頭の中では常に」
一拍。
「今は……途中で止まるんです」
「止まる?」
「はい。“どうせ俺なんて”って思いかけて、“あ、今また殴ろうとしてる”って気づく」
しのは、何も言えない。
「気づいたら、殴るのをやめる……わけじゃないです」
圭一は苦笑した。
「殴ります。ちゃんと。ただ、前みたいに、最後までフルスイングしなくなった」
しのの胸の奥で、何かが静かに揺れた。
「あと……」
圭一は少し姿勢を正す。
「仕事中、ミスをしたときです」
「はい」
「前なら、“やっぱり俺はダメだ”って思って終わってました」
「今は?」
「今は……」
圭一は、少し考えてから言った。
「“ミスした”って思うだけで、終わるようになりました」
沈黙が、少しだけ長くなる。
しのは、その時間を意図的に切らなかった。
相槌も、肯定も、しない。
ただ、圭一の言葉が、自分の中で沈むのを待った。
「……それを」
しのが、静かに口を開く。
声は、いつもの仕事用の柔らかさではなかった。
少しだけ低く、迷いが混じっている。
「それを、“成果”って呼ぶの……怖くないですか」
圭一は、目を瞬いた。
予想していなかった質問だったのだろう。
しばらくして、ゆっくりと視線を落とす。
「……怖いです」
即答だった。
「正直、“これでいい”って言われたら、ホッとすると思います」
しのの指先が、わずかに動く。
けれど、ペンには触れない。
「でも……それを言われたら」
圭一は、言葉を探すように天井を見る。
「たぶん、次は“もっとちゃんとした成果”を探し始めると思うんです」
「……」
「殴らなくなった自分を、褒められて。止まれた自分を、評価されて」
一呼吸。
「そのうち、“止まれない日”が来たら、また殴る気がして」
静かな声だった。
だが、その内容は鋭く、しのの胸の奥に突き刺さる。
「だから……」
圭一は、視線を戻す。
「怖いけど、今は……誰にも“いいですね”って言われない状態のほうが、楽です」
その言葉に、しのは息を詰めた。
――誰にも、褒められないほうが、楽。
それは、彼女が長いあいだ“仕事”として否定し続けてきた感覚だった。
褒めなければ、救われない。
言葉を渡さなければ、立ち直れない。
褒めることで、前に進める。
そう信じてきた。
それなのに。
「……それ、誰に返すための報告なんですか」
しのは、もう一歩踏み込んだ。
圭一は、少しだけ驚いた顔をしたあと、考える。
「……自分、だと思います」
「私じゃなくて?」
「はい」
迷いはなかった。
「あなたに聞いてほしかったけど、“評価してほしい”とは、違いました」
その言葉が、しのの中で静かに崩れ落ちる。
「だから“俺は価値がない”って、そこまで行かなくなった」
そこまで話を聞いて、しのは、暗闇の中で考える。
――私は、何を渡してきた?
問いが、胸の奥で形を持ちはじめる。
本来なら、ここは褒める場面だ。
変化を肯定し、努力を認め、言葉として渡す。
――「それは大きな一歩ですね」
――「十分、価値のある変化です」
頭の中には、いくつもの“正解の言葉”が浮かぶ。
けれど。
どれも、出してはいけない気がした。
褒めた瞬間、この人の変化は「成果」になってしまう。
成果になった途端、それはまた、次に評価される対象になる。
殴らなくなった自分。
止まれた自分。
それを「良い」と定義してしまったら、次は「もっと良くあろう」としてしまうのではなかろうか。
――それは、この人が望んだことだろうか。
しのは、初めてはっきりと意識した。
自分は今、褒めないという選択をしている。
逃げではない。
放棄でもない。
むしろ、ここで褒めないことこそが、この人の話を壊さない唯一の方法だと感じていた。
褒め屋としては、異常だ。
褒め屋としては、失格だ。
褒め屋としては、破綻だ。
でも、人としては――これ以上ないほど誠実な態度のようにも思えた。
その思考が浮かんだ瞬間、しのは自分の胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。
――誠実。
そう呼びたくなるのは、たぶん――“正しい”と確定させたいからだ。
褒めない。
与えない。
評価しない。
それは、褒め屋としての手順から外れている。
外れているのに、今の圭一の話を壊さないためには、それしかない気がしてしまう。
――止まっているのは、どっちだろう。
圭一が「途中で止まる」と言ったように、自分もまた、言葉を出しかけて止めている。
新規受付を止めた日と似ている。
理由を言わないまま、入口だけを閉じた。
“仕事としての判断”にして、感情から切り離したつもりだった。
けれど、こうして一人の依頼者が目の前に座り、褒めを求めずに「結果」を返してくると、逃げ場がなくなる。
――私は、止まったのか。
――それとも、止まり方を覚えただけなのか。
答えはまだ出ない。
ただ一つだけ確かなのは、今日ここで、褒めるという衝動を止めている自分を、もう“気づかないふり”はできないということだった。




