第46話 褒め屋は誰にも救われない[10]
夜勤明けの帰り道だった。
駅へ向かう途中、信号待ちでスマホを見て、いつものように三枝しののアカウントを開いた。
特別な理由はない。
開くことが、もう習慣になっていただけだ。
数日前から固定された投稿の文面が変わっている。
「しばらく新規受付を停止します」
それだけだった。
理由も、期間も、説明もない。
ここ数日、何度同じ文面を見ただろうか。
圭一は画面をスクロールする。
その下に、何か続きがあるような気がして。
でも、何もない。
何度も同じ画面を開いては閉じる。その繰り返し。
「……ああ」
声に出してから、自分で少し驚いた。
思ったよりも、すんなり納得してしまったからだ。
終わるときって、こういうものなのかもしれない。
騒ぎも、宣言もない。
ただ、入口が閉じる。
圭一は、予約画面を開いた。
自分の名前――
正確には、登録した仮名である久間崎一会――が残っている。
受付済み。
日時、確定。
停止前に入れた予約だ。
システム上は、何も問題がない。
依頼は、できる。
それでも、圭一は分かってしまった。
――もう、戻らない。
戻らない、というのは
この予約が消えるとか、会えなくなるとか、
そういう意味じゃない。
もっと手前の、空気の話だ。
三枝しのは、もう「褒めを売る人」ではなくなりつつある。
圭一は、しばらくその画面を見つめていた。
消そうと思えば、消せる。
キャンセルボタンは、そこにある。
それなのに、指が動かない。
「……」
理由は、はっきりしていた。
自分は、この人が止まる瞬間を、たまたま見てしまった。
それだけだ。
救われたわけじゃない。
人生が変わったわけでもない。
夜勤は続いている。
部屋も、服も、生活も、何一つ変わっていない。
それでも。
あの一時間のあとから、圭一は前ほど自分を殴らなくなっていた。
「どうせ俺なんて」という言葉が、喉まで上がってきても、最後まで言い切らずに済む日が増えた。
変わっているのは、自分だ。
なのに、しのは変わっていないように見える。
その事実が、圭一の中で、妙な重さを持ちはじめていた。
――おかしいだろ。
心の中で、誰かが言う。
一度、金を払って言葉をもらっただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
なのに、「見てしまった責任」みたいなものを勝手に背負おうとする。
圭一は、ベッドに腰を下ろし、スマホを両手で持ったまま、天井を見た。
連絡する理由なんて、ない。
もう褒めてほしいわけじゃない。
相談したいこともない。
「元気ですか」と聞く関係でもない。
それでも、何もしないまま終わるのは、違う気がした。
圭一は、ゆっくりと画面を操作する。
予約画面の編集画面。
コメント欄。
白いカーソルが、点滅している。
文章を考え始めて、すぐに消す。
何度も考えた。気になるのだ。
しかし今更、何を書こうというのか。
長い説明は違う。
感謝も違う。
「助かりました」も、違う。
しばらくして、圭一は、たった一行を打った。
「報告したいことがあります」
それ以上、何も書かない。
送信。
画面に「送信済み」の表示が出る。
予約した久間崎一会の名前だ。
圭一は、スマホを伏せて、目を閉じた。
これでいい。
これ以上は、踏み込まない。
返事が来なくてもいい。
来たら、それはそれで受け取る。
選ぶのは、相手だ。
しばらくして、
圭一は、ふと気づく。
――俺、もう
――「褒めてほしい人」じゃない。
それが良いことかどうかは、分からない。
強くなったとも、言えない。
ただ、誰かの言葉を「結果」として返そうとしている自分がいる。
それだけだった。
圭一は起き上がり、カーテンを少しだけ開ける。
朝の光が部屋に差し込む。
世界は何も変わっていない。
変わっていないからこそ、安心する。
それでも、自分が一歩だけ動いたことは、確かだった。
否――それが「動いた」と呼べることなのか、圭一自身には、まだ分からなかった。
ただ、連絡を送ったあとに残った静けさが、嫌じゃないことだけを、ぼんやりと感じていた。




