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あなたを褒める仕事をしています  作者: えんびあゆ
三枝しの編

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45/50

第45話 褒め屋は誰にも救われない[9]

なぜできなかったのか。


気づかれないため――だけではない。

それは理由として弱い。

そもそも、気づかれてもいいはずだ。

客として扱われるなら、本名でいい。


圭一が怖かったのは、「佐久間圭一」として会ってしまうことだった。


本名で行けば、自分は“圭一”として扱われる。

圭一は、圭一を信用していない。


情けない。

みっともない。

弱い。

すぐに自分を殴る。

すぐに「どうせ」「でも」「だけど」とか言う。

すぐに逃げる。

逃げないふりだけ上手い。


そういう自分が、本名と一緒に部屋へ入るのが怖かった。


だから仮名にした。


仮名なら、一度だけ「依頼者」になれる。


依頼者は役割だ。

役割なら――できる。

役割なら――情けないままでも成立する。

役割なら――相手の前で崩れてもいい。


圭一は仮名を入力しながら思った。


――一度だけでいい。

――一度だけ、機会が欲しい。


その一度が、なぜか残ってしまった。

残ったから、今こうして受付停止に胸がざわつく。


圭一は、スマホをまた取って、予約ページの文を読み直す。

「しばらく新規受付を停止します」

それだけ。


説明がないのが、しのらしい。

しのは、説明をサービスにしない。

分かりやすさで安心させない。

慰めの言葉を売らない。

だから圭一は救われた。

今の圭一があるのは、しののおかげといっても過言ではない。


でも今は、その“説明しなさ”が刺さる。


刺さるのは、圭一が「説明を求めてしまう側」になったからだ。


圭一は思う。

自分が“依頼者”だった頃は、もっと簡単だった。


褒められたい。

苦しい。

息ができない。

だから行く。


その単純さがあった。


でも今は、単純ではない。


しのの言葉が残った。

残ったから、自分が少しだけ動けた。

動けたから、しのの変化が見えてしまう。


見えたら、放っておけない。

放っておけないと思う自分が、また情けない。

情けないと思う癖が、まだ残っている。


圭一は、指先でスマホの端を撫でた。

そういう無意味な動きで、自分を保とうとしている。


保とうとしているのに、

圭一の中の“観測”は止まらない。


――受付停止。

――たぶん、これは終わりの始まり。


終わり、と言うと大げさだ。

しのは「やめます」と言っていない。

ただ止めただけだ。

それでも圭一は察してしまう。


「戻らない」感じがする。


戻らない、というのは、

再開しないという意味ではない。

再開したとしても、同じ形ではない、という意味だ。


圭一は、そこまで考えて、息が詰まった。


――俺は、何を知ったつもりになっているんだ。


知ったつもりになっているのは危険だ。

人の心のことを勝手に理解した気になる。

勝手に理解して、勝手に正義感を持つ。

勝手に正義感を持って、勝手に行動する。

そういう人間にだけはなりたくない。


圭一は、だから連絡しない。


連絡しないことが、自分の中の“安全”の最後の砦だった。


でも、その砦はもう薄い。


圭一は、過去の依頼者たちのことを思い出す。

部屋の椅子に座っていた自分は、ただの客だった。

他にも客がいる、としのは言った。

「書けない方の方が多いです」

そういう言い方で、圭一を特別扱いしなかった。


特別扱いしないことが、逆に特別だった。


圭一は、ふと一つの衝動に負ける。


――他の依頼者は、どうなったんだろう。


やめろ、と思う。

それを見たら、自分がまた何かを背負う。

でも指が動く。


検索窓に、しののアカウント名ではなく、

「褒め屋」「依頼」「感想」

そんな曖昧なワードを入れてしまう。


出てくる。

断片的に。

誰かの投稿の端に。


「今日、褒め屋行ってきた」

「褒め屋、マジで変なサービスだけど良かった」

「褒め屋ってやつ、思ったより淡々としてた」


具体的な名前は出ていない。

出ていても曖昧だ。

誰かの体験談に紛れているだけ。


圭一は読み進めるうちに、胸が重くなっていく。


みんな、普通に生きている。


次の週には別の話題を投稿している。

仕事の愚痴。

恋人の話。

ゲームの話。

飲みに行った写真。

笑っている文章。


褒め屋の話は、その日の一回で終わっている。


圭一は、そこで立ち止まる。


――依頼者は、救われたまま去っている。


この言い方は違う。

救われたかどうかなんて分からない。

でも、少なくとも去っている。

去れる。

去っていける。


圭一も、去れた側だ。

去れたのに、戻ってしまった。


戻ってしまったのは、依存したいからじゃない。


そう言い訳したくなる。

でも言い訳が出る時点で、危ない。


圭一は自分の中で、言葉を組み立て直す。


――戻ってしまったのは、

――“残った言葉”があったからだ。


言葉が残った。

残ったから、その言葉がどうやって生まれたのかが気になった。

気になったから、しのがどういう人間かを見てしまった。

見てしまったから、しのの変化にも気づいてしまった。


気づいてしまったら、観測者でいることが苦しくなる。


圭一は、スマホを置いて両手で顔を覆った。


眠い。

寝たい。

でも寝たら、起きた時にまた同じ考えが戻ってくる。

戻ってくるものは、消えない。


圭一は、あの部屋の静けさを思い出す。

白い壁。机。椅子。

演出のない空間。

そこで言葉だけがあった。


しのは言った。


「今日の言葉、信じなくていいです」

「覚えてなくてもいい。だけど、もし少しだけ残ったら、それで十分です」


――残った。


残ったから、今がある。


圭一は、ここで自分に問いを投げる。


――じゃあ、俺は何をするつもりなんだ。


今すぐ連絡はしない。

それは決めている。


でも、何もしないままではいられない。

いられない、と感じてしまうこと自体が、もう観測者じゃない。


圭一は、自分の予約名をもう一度見た。


久間崎一会。


この仮名は、逃げのためだけじゃない。

圭一はそこを認める。


仮名なら、一度だけ「依頼者」になれる。

それは逃げだ。

でも同時に、意志でもある。


本名で行けば、

自分はまた“褒められに行く人間”になってしまう。

それを圭一は恐れている。


褒められに行くこと自体が怖いのではない。

褒められた結果、しのに何かを求めてしまう自分が怖い。


求めてしまったら、しのを走らせてしまう。


走らせてしまう、というのは圭一の推測だ。

でも圭一は推測でも避けたい。


だから、今回の予約は「結果報告」だ。


あなたの言葉が残った。

あなたの言葉で、自分は選べた。

感謝ではない。

称賛でもない。

依存の否定でもない。

ただの報告。


そういう形なら、しのを走らせないで済むかもしれない。


圭一はそこで、また苦笑した。


――いつから俺は、こんなこと考えるようになった。


自分が誰かのために配慮する側になれるなんて、三枝しのと出会う前の自分なら笑ったはずだ。


でも今は笑えない。

笑うと、全部が軽くなる。

軽くなったら、また戻れなくなる。


圭一は深く息を吸った。

吸うと胸が痛い。

痛いけど、息が入る。


それが、あの部屋のあとに残った変化だった。


圭一は、もう一度だけSNSを開く。

しのの短い投稿を見て、閉じる。


閉じた瞬間、頭の中に言葉が浮かぶ。


――この人が止まる瞬間を、

――たまたま見てしまった。


そして次に続く言葉も、勝手に浮かぶ。


――見てしまった責任、みたいなものが残る。


責任を背負うのは嫌いだ。

でも、背負うことを嫌がれるだけの余裕が、今の自分にはある。


余裕があること自体が、

しのの言葉の成果かもしれない。


圭一は、そこで初めて思う。


――俺は、返したいのかもしれない。


褒めを返すのではない。

言葉を返すのでもない。

お金を返すのでもない。

返礼でもない。


ただ、「残った」という事実を返したい。


残っていると言えば、しのはきっと困る。

困るから、圭一は言い方を選ばないといけない。


言い方を選ぶ、という行為自体が、圭一にとっては異常なほど難しい。


夜勤の言葉は決まっている。

決まっている言葉は出せる。

決まっていない言葉は、自分を傷つけるし場合によっては、人を傷づけることだってある。


でも今度の言葉は、自分を傷つけるためではなく、自分を見失わないための言葉だ。

圭一は、それをまだうまく扱えない。


扱えないから、連絡しない。

扱えないまま触れば、壊す。


壊したくない。


壊したくない、という願いは、自分のためなのか、しののためなのか、もう分からない。


分からないから、決めない。


ただ、予約の日まで逃げない。

逃げない、というのは、何かをすることではない。

“見てしまったもの”をなかったことにしない、というだけだ。


圭一はスマホを伏せ、机の上に置いた。

画面が消える。

部屋が戻る。


冷えた空気。

自分の呼吸の音。

それだけが、やけに大きい。


予約確認の画面を閉じたはずなのに、依頼者名だけが、頭の中に残った。


久間崎一会。


その名前は、逃げのために付けた。

なのに今は、逃げられない場所に立っている。


圭一は目を閉じる。

眠れないまま、息だけを整えた。


――連絡は、しない。

でも、当日は行く。


それだけを決めて、朝を待った。

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