第45話 褒め屋は誰にも救われない[9]
なぜできなかったのか。
気づかれないため――だけではない。
それは理由として弱い。
そもそも、気づかれてもいいはずだ。
客として扱われるなら、本名でいい。
圭一が怖かったのは、「佐久間圭一」として会ってしまうことだった。
本名で行けば、自分は“圭一”として扱われる。
圭一は、圭一を信用していない。
情けない。
みっともない。
弱い。
すぐに自分を殴る。
すぐに「どうせ」「でも」「だけど」とか言う。
すぐに逃げる。
逃げないふりだけ上手い。
そういう自分が、本名と一緒に部屋へ入るのが怖かった。
だから仮名にした。
仮名なら、一度だけ「依頼者」になれる。
依頼者は役割だ。
役割なら――できる。
役割なら――情けないままでも成立する。
役割なら――相手の前で崩れてもいい。
圭一は仮名を入力しながら思った。
――一度だけでいい。
――一度だけ、機会が欲しい。
その一度が、なぜか残ってしまった。
残ったから、今こうして受付停止に胸がざわつく。
圭一は、スマホをまた取って、予約ページの文を読み直す。
「しばらく新規受付を停止します」
それだけ。
説明がないのが、しのらしい。
しのは、説明をサービスにしない。
分かりやすさで安心させない。
慰めの言葉を売らない。
だから圭一は救われた。
今の圭一があるのは、しののおかげといっても過言ではない。
でも今は、その“説明しなさ”が刺さる。
刺さるのは、圭一が「説明を求めてしまう側」になったからだ。
圭一は思う。
自分が“依頼者”だった頃は、もっと簡単だった。
褒められたい。
苦しい。
息ができない。
だから行く。
その単純さがあった。
でも今は、単純ではない。
しのの言葉が残った。
残ったから、自分が少しだけ動けた。
動けたから、しのの変化が見えてしまう。
見えたら、放っておけない。
放っておけないと思う自分が、また情けない。
情けないと思う癖が、まだ残っている。
圭一は、指先でスマホの端を撫でた。
そういう無意味な動きで、自分を保とうとしている。
保とうとしているのに、
圭一の中の“観測”は止まらない。
――受付停止。
――たぶん、これは終わりの始まり。
終わり、と言うと大げさだ。
しのは「やめます」と言っていない。
ただ止めただけだ。
それでも圭一は察してしまう。
「戻らない」感じがする。
戻らない、というのは、
再開しないという意味ではない。
再開したとしても、同じ形ではない、という意味だ。
圭一は、そこまで考えて、息が詰まった。
――俺は、何を知ったつもりになっているんだ。
知ったつもりになっているのは危険だ。
人の心のことを勝手に理解した気になる。
勝手に理解して、勝手に正義感を持つ。
勝手に正義感を持って、勝手に行動する。
そういう人間にだけはなりたくない。
圭一は、だから連絡しない。
連絡しないことが、自分の中の“安全”の最後の砦だった。
でも、その砦はもう薄い。
圭一は、過去の依頼者たちのことを思い出す。
部屋の椅子に座っていた自分は、ただの客だった。
他にも客がいる、としのは言った。
「書けない方の方が多いです」
そういう言い方で、圭一を特別扱いしなかった。
特別扱いしないことが、逆に特別だった。
圭一は、ふと一つの衝動に負ける。
――他の依頼者は、どうなったんだろう。
やめろ、と思う。
それを見たら、自分がまた何かを背負う。
でも指が動く。
検索窓に、しののアカウント名ではなく、
「褒め屋」「依頼」「感想」
そんな曖昧なワードを入れてしまう。
出てくる。
断片的に。
誰かの投稿の端に。
「今日、褒め屋行ってきた」
「褒め屋、マジで変なサービスだけど良かった」
「褒め屋ってやつ、思ったより淡々としてた」
具体的な名前は出ていない。
出ていても曖昧だ。
誰かの体験談に紛れているだけ。
圭一は読み進めるうちに、胸が重くなっていく。
みんな、普通に生きている。
次の週には別の話題を投稿している。
仕事の愚痴。
恋人の話。
ゲームの話。
飲みに行った写真。
笑っている文章。
褒め屋の話は、その日の一回で終わっている。
圭一は、そこで立ち止まる。
――依頼者は、救われたまま去っている。
この言い方は違う。
救われたかどうかなんて分からない。
でも、少なくとも去っている。
去れる。
去っていける。
圭一も、去れた側だ。
去れたのに、戻ってしまった。
戻ってしまったのは、依存したいからじゃない。
そう言い訳したくなる。
でも言い訳が出る時点で、危ない。
圭一は自分の中で、言葉を組み立て直す。
――戻ってしまったのは、
――“残った言葉”があったからだ。
言葉が残った。
残ったから、その言葉がどうやって生まれたのかが気になった。
気になったから、しのがどういう人間かを見てしまった。
見てしまったから、しのの変化にも気づいてしまった。
気づいてしまったら、観測者でいることが苦しくなる。
圭一は、スマホを置いて両手で顔を覆った。
眠い。
寝たい。
でも寝たら、起きた時にまた同じ考えが戻ってくる。
戻ってくるものは、消えない。
圭一は、あの部屋の静けさを思い出す。
白い壁。机。椅子。
演出のない空間。
そこで言葉だけがあった。
しのは言った。
「今日の言葉、信じなくていいです」
「覚えてなくてもいい。だけど、もし少しだけ残ったら、それで十分です」
――残った。
残ったから、今がある。
圭一は、ここで自分に問いを投げる。
――じゃあ、俺は何をするつもりなんだ。
今すぐ連絡はしない。
それは決めている。
でも、何もしないままではいられない。
いられない、と感じてしまうこと自体が、もう観測者じゃない。
圭一は、自分の予約名をもう一度見た。
久間崎一会。
この仮名は、逃げのためだけじゃない。
圭一はそこを認める。
仮名なら、一度だけ「依頼者」になれる。
それは逃げだ。
でも同時に、意志でもある。
本名で行けば、
自分はまた“褒められに行く人間”になってしまう。
それを圭一は恐れている。
褒められに行くこと自体が怖いのではない。
褒められた結果、しのに何かを求めてしまう自分が怖い。
求めてしまったら、しのを走らせてしまう。
走らせてしまう、というのは圭一の推測だ。
でも圭一は推測でも避けたい。
だから、今回の予約は「結果報告」だ。
あなたの言葉が残った。
あなたの言葉で、自分は選べた。
感謝ではない。
称賛でもない。
依存の否定でもない。
ただの報告。
そういう形なら、しのを走らせないで済むかもしれない。
圭一はそこで、また苦笑した。
――いつから俺は、こんなこと考えるようになった。
自分が誰かのために配慮する側になれるなんて、三枝しのと出会う前の自分なら笑ったはずだ。
でも今は笑えない。
笑うと、全部が軽くなる。
軽くなったら、また戻れなくなる。
圭一は深く息を吸った。
吸うと胸が痛い。
痛いけど、息が入る。
それが、あの部屋のあとに残った変化だった。
圭一は、もう一度だけSNSを開く。
しのの短い投稿を見て、閉じる。
閉じた瞬間、頭の中に言葉が浮かぶ。
――この人が止まる瞬間を、
――たまたま見てしまった。
そして次に続く言葉も、勝手に浮かぶ。
――見てしまった責任、みたいなものが残る。
責任を背負うのは嫌いだ。
でも、背負うことを嫌がれるだけの余裕が、今の自分にはある。
余裕があること自体が、
しのの言葉の成果かもしれない。
圭一は、そこで初めて思う。
――俺は、返したいのかもしれない。
褒めを返すのではない。
言葉を返すのでもない。
お金を返すのでもない。
返礼でもない。
ただ、「残った」という事実を返したい。
残っていると言えば、しのはきっと困る。
困るから、圭一は言い方を選ばないといけない。
言い方を選ぶ、という行為自体が、圭一にとっては異常なほど難しい。
夜勤の言葉は決まっている。
決まっている言葉は出せる。
決まっていない言葉は、自分を傷つけるし場合によっては、人を傷づけることだってある。
でも今度の言葉は、自分を傷つけるためではなく、自分を見失わないための言葉だ。
圭一は、それをまだうまく扱えない。
扱えないから、連絡しない。
扱えないまま触れば、壊す。
壊したくない。
壊したくない、という願いは、自分のためなのか、しののためなのか、もう分からない。
分からないから、決めない。
ただ、予約の日まで逃げない。
逃げない、というのは、何かをすることではない。
“見てしまったもの”をなかったことにしない、というだけだ。
圭一はスマホを伏せ、机の上に置いた。
画面が消える。
部屋が戻る。
冷えた空気。
自分の呼吸の音。
それだけが、やけに大きい。
予約確認の画面を閉じたはずなのに、依頼者名だけが、頭の中に残った。
久間崎一会。
その名前は、逃げのために付けた。
なのに今は、逃げられない場所に立っている。
圭一は目を閉じる。
眠れないまま、息だけを整えた。
――連絡は、しない。
でも、当日は行く。
それだけを決めて、朝を待った。




