第44話 褒め屋は誰にも救われない[8]
圭一がそれに気づいたのは、夜勤明けの朝だった。
カーテンの隙間から入る光が白い。
冬の終わりか、春の手前か――そういう季節の境目の光だった。
部屋の空気はまだ冷たいのに、光だけが先に暖かい顔をしている。
圭一は寝ようとして、寝られないまま座っている。
身体は眠りたがっている。
足先も、肩も、背中も、重い。
なのに頭だけが冴えている。
冴えているというより、どこにも落ち着かない。
こういうとき、圭一はスマホを触る。
通知があるわけじゃない。誰かと連絡を取る予定もない。
ただ、手に持っていないと落ち着かない。
画面を点ける。
指先に光が貼りつく。
そこだけが現実みたいに明るい。
SNSを開く。
スクロールして、流し読みして、閉じて、また開く。
目的がないふりをしているのは、自分でも分かっている。
――目的は、最初から決まっていた。
三枝しの。褒め屋。
検索はしない。
直接探すのは、もうやめた。
それは自分の中で“越えてはいけない線”になっている。
越えたら、何かが変わってしまう。
変わってしまったものを自分が扱えない。
扱えないくせに、触りたくなる。
だから触らない。触らないための自分ルールが、検索しない、だった。
ただ、タイムラインの端に流れてきたときだけ、見る。
たまたま目に入っただけのふりをして。
偶然の顔をして。
その日も、更新はあった。
頻度は戻っている。
数日空く、ということはない。
むしろ以前より一定だ。
時間帯まで似ている。
朝に一つ、夜に一つ。
淡々としていて、癖がない。
――でも、違う。
文章が短い。
短くて、整っていて切れている。
余分な言葉が削られ、説明が省かれて断定だけが残る。
以前より感情がなくなりかなりあっさりしている様子。
「本日も依頼を受けました」
「予約受付について」
「返信は○日以内」
「当日キャンセルは不可」
連絡事項みたいな文。
いつか見た“業務連絡”のテンプレートに似ている。
違うのは、その言葉が、世界を拒んでいる感じがすることだった。
圭一は、スクロールする指を止めた。
変わったのは、しのじゃない。
そう言い聞かせようとして、やめる。
変わったのは、自分のほうだ。
昔なら、この短さを「プロっぽい」と思ったはずだった。
割り切っていて、仕事として正しい、と。
むしろ好ましい、清々しいとさえ思ったかもしれない。
圭一は、“正しい”を選ぶのが好きだった。
好き、というより安全だった。
正しい側にいれば、誰にも叱られない。
叱られないと、傷つかない。
傷つかなければ、情けないと言わずに済む。
それが、あの部屋に行く前までの自分の生き方だった。
でも今は、その“正しさ”が怖い。
正しさの中で、人は簡単に止まる。
止まってもなお、正しい顔をしてしまう。
止まったことすら、誰にも気づかれない。
圭一は、目をこすり、スマホをいったん伏せた。
画面が消えると、部屋が急に暗く感じる。
暗いのに、落ち着かない。
結局また画面を点ける。
次に触れたのはSNSじゃなかった。
予約画面だった。
久間崎一会。
受付済み。
日時:来週。
自分が入れた予約が、そこに残っている。
一件だけ。
その下に、本来なら並んでいるはずの“空き枠”がない。
空白が続く。
画面がやけに静かだ。
圭一は、設定を開く。
自分の目で確認する。
新規受付:停止中。
理由は書かれていない。
告知もない。
ただ一文だけが表示されている。
「しばらく新規受付を停止します」
それだけ。
圭一はスマホを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
――ああ。
声には出さない。出すと現実になるから。
現実になったものは、戻せない。
戻せないのが怖いくせに、もう見てしまった。
自分の予約は、停止の前に入っていた。
それだけが残っている。
つまり、これは境界線だ。
自分は「止まる前の最後」に、たまたま滑り込んだ。
そういう形になってしまった。
胸の奥が冷える。
冷えるのに、どこか熱い。
圭一は思う。
連絡は、しない。
今ここで「大丈夫ですか」と言ったら、
その言葉は“褒め”になってしまう。
“褒め”は、しのにとって危険だ。
危険、という言い方は、圭一が勝手に決めつけているだけかもしれない。
でも圭一は、あの部屋で聞いた温度を覚えている。
優しさではなく、裁きでもない、仕事の温度。
「佐久間さんは、ここに来ました」
その言葉は、今でも胸に残っている。
自分が何者でもない時間に、確かに“来た”という事実だけを拾われた。
救われたわけじゃない。
許されたわけでもない。
「大丈夫」なんて言われていない。
でも、拾われた。
拾われたから、圭一は一つだけ変われた。
――変わった。
そう思うことができるようになった。
夜勤は続けている。
生活は変わらない。
コンビニの白い光の中で、決まった言葉を言い、決まった手順をこなして、決まった時間に帰る。
変わらないのに、
以前ほど自分を卑下しなくなっている。
「情けない」と思う癖が、完全には消えない。
ただ、それが出てきたときに、すぐに自分を殴り返す速度が落ちた。
“殴る前に、息ができる”。
それが変化だった。
圭一は、そこで初めて気づく。
――変わっているのは自分なのに。
――しのは、変わっていない。
いや、違う。
しのは変わっていない“ふり”が上手いだけかもしれない。
圭一は、しのの短い投稿を思い出す。
そこに、何も書かれていないからこそ見えるものがある。
書かれていない、という事実が、何かを隠している感じがする。
圭一は自分が嫌いなことをしている、と気づく。
――行間を読む。
それは昔の自分が一番避けてきたことだ。
誰かの気持ちを勝手に推測して、勝手に責任を背負って、勝手に傷つく。
そういうのは全部、無駄だと思ってきた。
無駄というより、危ない。
危ないから、やらない。
だから圭一は、いつも「事実だけ」を拾う人間だった。
なのに今、圭一は行間を読んでしまう。
しのが受付を止めた。
理由は書かれていない。
でも止めた。
事実だけで十分なはずなのに、圭一の中に問いが生まれる。
――なぜ。
問いが生まれた瞬間に、もう戻れない。
問いが生まれたら、答えを探す。
答えを探すと、踏み込む。
踏み込まない。
だから連絡はしない。
それなのに――
「受付停止」という事実だけは、圭一に踏み込ませる。
しのが止まる瞬間を、圭一だけが観測してしまったような形になる。
たまたま予約を入れて、たまたま停止の前に滑り込んだだけなのに。
――俺は、
――この人が止まる瞬間を、
――たまたま見てしまっただけなんじゃないか。
その考えに触れた瞬間、胸の奥に“責任”のようなものが生まれた。
責任と言うと大げさだ。
でも、似ている。
見てしまった。
気づいてしまった。
知ってしまった。
知ってしまった以上、“無関係”の顔ができなくなる。
圭一は、そこで初めて自分の名前を見た。
久間崎一会。
仮名。偽名。嘘っぱち。
それを入力した夜のことを、圭一は思い出す。
予約フォームの「名前」の欄に指を置いたまま、しばらく動けなかった。
本名を入れればいいだけなのに、それができなかった。




