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あなたを褒める仕事をしています  作者: えんびあゆ
三枝しの編

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第43話 褒め屋は誰にも救われない[7]

栗原雅子は、エレベーターの鏡に映る自分を、しばらく見ていた。


照明の下で、顔色は悪くない。

目の下の影も、思ったほどではない。

肩の力も抜けている。

呼吸も浅くない。


体調はいい。

疲労も残っていない。


――問題がない。


その事実を確認してから、

雅子はゆっくりと視線を逸らした。


――問題がない、というのが問題なのだ。


エレベーターが一階に着く。

電子音。

扉が開き、人が乗り込む。

目的地を押す指。

何事もない動作。


扉が閉まる。


雅子は、その場に立ったまま、動かなかった。


数年前なら、こんなことはなかった。

次の予定があり、

次の判断があり、

次にすべき確認があった。


立ち止まる理由は、常に「非効率」だった。

立ち止まる暇があれば、考えろ。

考える暇があれば、決めろ。

決めたら、進め。


それが正しさだった。


けれど今は、理由がないまま、止まる。


誰にも咎められない。

誰にも急かされない。

それが、少しだけ――怖い。


自分を動かしていた外圧が、もうない。


――止まることは、悪いことじゃない。


その言葉を、自分が誰かに言ったことを、雅子は思い出す。


改札の前だった。

朝の人波の中で、ひとり立ち尽くしていた部下。


三枝しの。


当時、彼女はよく「すみません」と言っていた。

謝る理由がないときも。

誰も責めていない場面でも。


止まっていること自体が、悪だと思っている顔だった。


雅子は、あのとき助けたつもりはなかった。

励ました覚えもない。

背中を押した記憶もない。


ただ、事実を言っただけだ。


「今、止まってるでしょ」


それだけ。


止まっている、という事実。

評価も、解釈も、感情も含まない。


それ以上でも、それ以下でもない。


なのに、彼女はそれを覚えていた。

何年も経ってから、

別の場所で、

同じ言葉を向けられても。


――人は、褒められた言葉より、

――否定されなかった事実のほうを、

――長く抱えてしまうことがある。


雅子はエレベーターを降り、歩き出す。

外の空気は、思ったよりも冷たくない。


そこで初めて、季節が変わったのだと気づいた。


昔の自分なら、気づかなかった。

忙しさは季節を削る。

変化は「対応すべきもの」であって、

感じるものではなかった。


髪をバッサリ切ったのは、衝動だった。


ある朝、鏡を見て、

ふと、思った。


――このまま仕事を続ける顔ではない。


続けられない、ではない。

辞める、でもない。


ただ――

「このままではない」顔。


理由を聞かれたら、説明できない。

説明できないことは、たいてい本音だ。


髪を切ったから止まれたわけじゃない。

止まったから切った、とも言い切れない。


ただ、

長いままでは、動けなかった。


動けないまま、

動いているふりをするのが、

いちばん苦しかった。


会議で、三枝しのの名前を見たとき、

雅子は一瞬だけ、呼吸の間を失った。


画面の向こう。

マイクはオフ。

感情を消した表情。


でも、分かる。


――走っている。


あの頃と同じ速度で。

止まれることを知ったまま、止まらずに。


仕事はできている。

立場もある。

責任も果たしている。


壊れていない。


それは、昔と同じ評価基準だった。


だから、褒めなかった。

褒める理由がなかった。


褒めたら、走り続ける理由になる。

あの人は、理由を与えると止まらない。


止まる場所を、奪ってしまう。


だから、問いだけを置いた。


「誰が、あなたを褒めるの?」


答えは要らない。

自分も、まだ答えを持っていない。


雅子は、しのに何かをさせたいわけではなかった。

仕事を辞めさせたいわけでもない。

褒め屋を否定するつもりもない。


ただ――


あの人が、

「受け取らない側」に立ち続けていることだけが、

気になった。


救う人。

整える人。

渡す人。


それは、尊い役割だ。


でも、その役割に名前をつけすぎると、

降りられなくなる。


自分は、それで止まれなかった。


止まれたのではない。

止まってしまったのだ。


ある日、判断が遅れた。

ある日、言葉が出なかった。

ある日、「正しい対応」が分からなくなった。


そのとき初めて、走れなくなった。


――止まることは、悪いことじゃない。


でも、止まらないことが正しいとも、限らない。


雅子は歩きながら、ふと笑う。


自分は、まだ途中だ。

整ってもいない。

答えも出ていない。


それでも、

あの人に同じ言葉を渡した。


理由を説明しないまま。

結論を置かないまま。


問いだけを、残した。


それでいい。


答えは渡すものじゃない。

選ぶものだ。


雅子は駅へ向かう。

改札を抜ける人の流れを見る。


誰も立ち止まらない。

誰も間違っていない。


それでも、

止まる人が一人いてもいい。


止まったまま、考える人がいてもいい。


雅子は、自分の短くなった髪に、指先で触れた。


――これは、決意じゃない。


その背中は、もう振り返らなかった。

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