第42話 褒め屋は誰にも救われない[6]
――数日前。
会議の中で栗原雅子と再会したあの日。
会議が終わっても、三枝しのはすぐに画面を閉じなかった。
パソコンの前に座ったまま、背もたれに体を預ける。
椅子がわずかに軋む音がした。
画面は暗い。
さっきまで並んでいた名前も、発言の順番も、すべて消えている。
それなのに、しのの視界には、まだ一人の姿が残っていた。
栗原雅子。
名前を認識するまでに、一拍あった。
画面に映った瞬間、すぐに「そうだ」とはならなかった。
数年ぶりだ。
最後に会ったのは、会社を辞める前――もっと前かもしれない。
髪型が違う。
以前は、長い髪をきちんとまとめていた。
一本も乱れないように、いつも同じ位置で。
今は、首の真ん中あたりで切り揃えたショートヘアだった。
余計な癖も、装飾もない。
でも。
姿勢。
画面の中央に自然と収まる座り方。
話し始める前の、ほんの一拍の“間”。
――ああ。
しのは、そこで確信した。
本人だ。
会議中、雅子は淡々と話していた。
声は低く、語尾を伸ばさない。
内容は正確で、無駄がない。
一言で流れが整う。
誰かが「助かります」と言っても、
「よく分かりました」と返されても、
雅子は特に反応を示さなかった。
褒めもしない。
評価もしない。
否定もしない。
ただ、仕事を進める。
その様子を見ながら、しのは胸の奥で小さく思った。
――変わっていない。
会議の終盤、参加者の画面が一つずつ消えていく。
最後に残った雅子の画面も、無言のまま暗くなった。
その直前。
「……三枝」
名前を呼ばれた。
業務用でも、親しげでもない。
確認するような、短い呼び方。
しのが反応する前に、雅子は続けた。
「止まることは、悪いことじゃない」
それだけだった。
画面は暗くなり、会議は完全に終わった。
あの日の記憶がしのの脳裏にそのまま残り続けていた。
数日後。
仕事の関係で、しのは久しぶりに対面の打ち合わせに出向いていた。
小さなオフィスビルの一室。
取引先との打ち合わせは、すでに終わっていた。
名刺交換も、次回の予定確認も済んでいる。
しのは、帰り支度をするほどでもなく、ただコーヒーが冷めるのを待っていた。
ノックの音がした。
「失礼」
入ってきたのは、栗原雅子だった。
今度は、画面越しではない。
実際の距離。
あえて会議が終わった“あと”を、この人は選んだのだと、しのは思った。
背は高い。
ヒールは低いが、自然と視線が合う。
しのは、思わず口に出していた。
「……髪、切ったんですね」
雅子は一瞬だけ間を置いた。
「うん」
それだけ。
説明もしない。
理由も言わない。
でも、その“言わなさ”が、しのの胸に残った。
止まった人の沈黙だ、と直感した。
二人は向かい合って座った。
「今は、どんな仕事を」
雅子が先に聞いた。
「編集の仕事を続けています。それと……」
「それと?」
「個人で、少し」
「少し?」
しのは、少しだけ息を整えた。
「褒め屋、を」
雅子は頷いた。
「そう」
驚きも、評価もない。
「否定しないんですね」
「否定する理由がない」
「褒めもしない」
「褒める必要もない」
その言葉に、しのは小さく息を吐いた。
――昔から、この人はそうだった。
入社したばかりの頃。
しのは、よく“整える役”を任されていた。
誰かの言葉を、角が立たない形に直す。
誰かの怒りを、手順に変える。
うまくやっても、特別な評価はない。
でも、失敗もしない。
ある日、しのは勇気を出して聞いたことがある。
「私の仕事、どうですか」
雅子は、資料から目を離さずに言った。
「壊れてない」
それだけだった。
「……良い、ですか」
「壊れてないなら、十分」
褒められた気はしなかった。
でも、不思議と折れなかった。
今になって思えば、
あれは「褒めなかった」のではない。
走らせなかったのだ。
―――。
「あなた、昔から“正しい側”にいようとする」
雅子が言った。
「思ってない人ほど、そうなる」
「……」
「止まるときも、正しい止まり方を探す」
しのは、視線を落とした。
「止まれるようには、なりました」
「止まれることを知っただけ」
「……」
「止まるかどうかは、選んでない」
その言葉が、胸に落ちた。
「褒め屋って仕事、悪くないと思う」
雅子は続ける。
「でもね」
少しだけ、声の調子が変わった。
「あなた、ずっと受け取らない側にいる」
「救っているつもりはありません」
「分かってる」
「でも、“受け取らない”って決めてる」
沈黙。
「褒める。渡す。終わる」
「……はい」
「で、あなたは?」
しのは、答えられなかった。
「誰が、あなたを褒めるの?」
雅子は、答えを出さない。
ただ、問いを置く。
「止まることは、悪いことじゃない」
「でも、止まらないことが正しいとも限らない」
しのは、何も返せなかった。
去り際。
雅子は、ふと立ち止まって言った。
「私ね」
しのが顔を上げる。
「一度、止まったの」
説明はしない。
理由も言わない。
「だから、切ったの」
それだけだった。
家に帰ったしのは、予約画面を開いた。
久間崎一会。
一件だけ、残っている。
新規予約を停止する前に最後に入ってきた予約。
しのは、思った。
――この人をもって『褒め屋』は休業にしよう。
佐藤美代子の1件以来、しのの心はどこか曇っていた。
届かない褒めもある。そんなことはわかっていた。
しかし、実際に自身の褒めが届かないとなると、自分はこの仕事を続ける意味があるのかわからなくなってくる。
――だから一度止まる。
それが“正しい”ことなのかどうかは、まだ分からない。
止まることは、悪いことじゃない。
でも、止まる場所を選ぶのは、まだ怖い。
しのは、画面を閉じた。
結論は、出さない。
せめて、この最後の依頼者の仕事が終わるまでは。
ただ、止まらないままではいられないことだけは、もう分かっていた。




