第41話 褒め屋は誰にも救われない[5]
しのは、夜になってからもう一度、予約管理画面を開いた。
昼間にも一度、見ている。
仕事の合間、何の気なしに。
そのときは、ただ「確認した」という事実だけが残った。
今は、違う。
画面に向き合う姿勢が、少しだけ変わっている。
確認ではなく、向き合っている、という感覚だった。
画面に並んでいるのは、たった一件。
依頼者名:久間崎 一会
ステータス:受付済み
日時:来週
それ以外は、何もない。
以前なら、空白を見ると、無意識に次の枠を考えていた。
曜日。時間帯。
どこに余白を足せば、無理なく回るか。
でも今日は、違う。
空白が続く画面は、静かだった。
埋めろとも、急げとも言ってこない。
責める気配もない。
ただ、そこにある。
「……減ったな」
声に出してから、しのはすぐに首を振った。
減った、という言い方は正確じゃない。
自分で減らした。
予約枠を増やさなかった。
投稿もしなかった。
告知も、促しも、しなかった。
誰かが来なくなったわけではない。
来るための道を、こちらが広げなかっただけだ。
久間崎一会。
昼間に見たときと、同じ名前。
見覚えはない。
珍しすぎるほどでもない。
意味を探そうと思えば、探せそうな並び。
なのに、しのはそこに踏み込まなかった。
名前に意味を持たせると、その瞬間から“期待”が生まれる。
期待は、仕事を歪める。
初回。
簡単なメモ。
感情の色は、ほとんどない。
これまで何百と見てきた形式だ。
だからこそ、特別扱いはしない。
――それでも、残っている。
画面の下へ、視線を落とす。
「新規受付」の設定。
しのの指が、止まった。
止まること自体は、久しぶりじゃない。
迷ったことも、考え込んだことも、何度もある。
でも今回は、違った。
「続けるか、やめるか」
そういう二択ではない。
もっと手前。
もっと曖昧で、言葉にならない場所で、足が止まっている。
――この仕事を、“仕事”として続ける意味は、まだあるのか。
褒め屋は成立している。
時間を区切り、言葉を渡し、代金を受け取る。
依頼者は満足して帰る。
問題は起きていない。
誰も困っていない。
それでも。
胸の奥に説明できない引っかかりが残る。
しのは今日の昼間のことを思い出す。
オンライン会議。
淡々と進む議題。
画面の向こうに現れた、栗原雅子。
褒めなかった。
評価しなかった。
否定もしなかった。
ただ、淡々と、仕事を進めた。
昔から、そうだった。
あの人は、走らせない。
でも、引き止めもしない。
止まるかどうかを、必ず本人に委ねる。
「止まることは、悪いことじゃない」
あの言葉は、慰めではなかった。
許しでも、励ましでもない。
“事実”だった。
止まっている、という状態を良いとも悪いとも判断せず、ただそこに置く。
だから、しのは壊れなかった。
褒められなかった。
でも、切り捨てられもしなかった。
守られたが、縛られなかった。
気づけば、そのやり方が、しのの中に残っていた。
だから今、自分も同じことをしている。
依頼者を止めない。
褒めて、渡して、終わる。
先に進むかどうかは、相手に任せる。
それは、正しい。
ずっと、そう信じてきた。
でも。
その“正しさ”の中で、自分はどこに立っているのか。
しのは、久間崎一会の名前を、もう一度見る。
残っている予約。
消していない予約。
最後の一件。
特別だとは思わない。
まだ、思えない。
ただ――これ以上、増やしたくないと思った。
増やした瞬間、この違和感を見ないふりをしてしまう気がした。
しのは設定画面を開き、短い一文を入力した。
「しばらく新規受付を停止します」
理由は書かない。
説明もしない。
それは、誰かを突き放すためじゃない。
自分をごまかさないためだ。
保存を押す。
画面が更新される。
新しい予約は、入らなくなった。
久間崎一会の予約だけが、残る。
しのは画面を閉じた。
止まったわけじゃない。
やめたわけでもない。
ただ、「これ以上は進まない」と決めただけだ。
それがどこにつながるのかは、まだ分からない。
椅子に深く座り直し、息を整える。
――止まることは、悪いことじゃない。
あの言葉を、初めて自分自身に向けて置いたまま、しのは、その夜を終えた。
結論はまだ出さない。
久間崎一会の予約が、そこに残っている限り。




