第38話 褒め屋は誰にも救われない[2]
レンタルスペースのドアが閉まる音は、いつも同じだった。
軽くて、乾いていて、感情を含まない。
三枝しのは、椅子に座ったまま、少しだけ息を吐いた。
深呼吸ではない。
癖のような呼吸だ。
時計を見る。
まだ、十分ほど余裕がある。
メモ帳を机の中央に置き、ペンを横に並べる。
位置は、いつもと同じ。
ずれはない。
今日は、初回の依頼者だった。
予約時のメモは短い。
「仕事のことで、少し褒められたいことがあります」
それだけ。
過剰な感情も、過度な期待も書かれていない。
こういう依頼は、やりやすい。
しのはそう判断する。
――判断してしまうこと自体に、違和感がない。
ノックがして、ドアが開いた。
「こんにちは」
入ってきたのは、三十代半ばくらいの男性だった。
スーツは着ていないが、きちんとした服装。
目線は安定している。
緊張はしているが、崩れてはいない。
「こんにちは」
しのは、いつも通り椅子を示す。
距離も、声の高さも、変えない。
男性は座り、軽く頭を下げた。
「今日は、よろしくお願いします」
「こちらこそ。ありがとうございます」
形式的な挨拶。
それで、十分だった。
しのは、最初の説明をする。
時間のこと。
途中でやめていいこと。
治療ではないこと。
評価を目的としないこと。
言葉は、滞りなく出てくる。
どれも、何度も使ってきた文章だ。
男性は頷く。
理解しているというより、「理解できる形」に収まっている。
「では、今日はどんなことを」
男性は少し考えてから話し始めた。
仕事の話。
配置換え。
部下との関係。
自分の判断が正しかったのか、少し不安になったこと。
声は落ち着いている。
言葉も整理されている。
大きな混乱はない。
しのは、聞きながら、頭の中で自然に整理していた。
事実。
行動。
結果。
拾えるポイントは、いくつもある。
――ここまでは、いつも通りだ。
男性が話し終えると、しのは一度だけ頷いた。
「いくつか、事実として確認しますね」
男性は姿勢を正した。
その反応も、よくあるものだった。
「配置換えの判断をしたのは、あなたですね」
「はい」
「その結果、現場は混乱しませんでした」
「……そうですね」
「少なくとも、致命的な問題は起きていません」
「はい」
しのは、そこで言葉を選ぶ。
選ぶ、というより――。
慎重に削っている感覚だった。
本来なら、次に続けられる言葉があった。
「難しい判断を引き受けた」
「責任を持った」
「逃げなかった」
でも、それらを出す前に、頭の中で一度止まる。
――それは、今言うべき言葉だろうか。
しの自身にも、理由は分からない。
ただ、少しだけ、ブレーキがかかる。
「……必要な判断を、先送りにしなかった」
代わりに出てきたのは、
温度の低い、事実に近い言葉だった。
男性は、それでも安心したように息を吐いた。
「そう言ってもらえると……助かります」
しのは頷く。
「言っているのは、私の意見ではありません。あなたが実際にやったことです」
それは、いつもの褒め方だ。
事実を返す。
意味づけをしすぎない。
男性は、しばらく黙ってから言った。
「……来てよかったです」
その言葉を聞いた瞬間、
しのの中で何かが届かなかった。
来てよかった。
満足している。
安心している。
それは、確かに伝わる。
なのに。
——この人に、私の言葉は、届いたのだろうか。
そんな疑問が、ふと浮かぶ。
今までも、何度もあったはずの言葉なのに。
今日に限って、その後ろに空白が残る。
男性は、それ以上深く話さなかった。
時間が来ると、きちんと礼を言い、席を立った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。お気をつけて」
ドアが閉まる。
部屋に、静けさが戻る。
しのは、メモ帳を見た。
書かれているのは、短い箇条書きだけ。
・判断を先送りしなかった
・結果として大きな問題は出ていない
――それだけ。
ペンを置いたまま、しのは少し考える。
仕事としては、成立している。
依頼者も満足して帰った。
クレームはない。
違和感を表に出したわけでもない。
それなのに。
「……」
言葉が軽い。
そう感じてしまったこと自体が、しのには少し怖かった。
先日の依頼者、佐藤美代子の顔が頭をよぎる。
褒めてほしいと言いながら、褒めを受け取れなかった人。
あのとき、しのは言葉を出せなかった。
出せば嘘になる気がした。
今日は、出せた。
ちゃんと、仕事として言葉を渡した。
――でも、その言葉は、本当に相手に触れたのか。
しのは、答えを探さなかった。
探すと仕事が壊れる気がした。
メモ帳を閉じる。
ペンを揃える。
次の予約まで、少し時間がある。
しのは立ち上がり、窓を少しだけ開けた。
春の風が、部屋に入ってくる。
冷たくはない。
でも、あたたかくもない。
「……問題ない」
誰に向けた言葉でもなく、そう言った。
仕事はできている。
壊れていない。
止まってもいない。
ただ、届いているかどうかだけが、分からなくなっている。
しのは窓を閉め、椅子に戻った。
次の依頼者が来るまで、いつも通り、ここにいるつもりだった。
それが仕事だから。
——それ以上の理由は、今は考えないことにした。




