第37話 褒め屋は誰にも救われない[1]
――淡々とした朝。
朝の空気が、少しだけ軽くなっていた。
三枝しのは、玄関で靴を履きながら、そのことに気づいた。
気づいた、というより、あとからそうだと分かった。
コートを手に取らなかった。
正確には、クローゼットの前で一度だけ立ち止まり、手を伸ばしかけて、やめた。
「……いらないか」
誰に聞かせるでもなく、そう言ってドアを開けた。
春先の朝は、寒くないわけじゃない。
でも、刺す感じがない。
身体に触れても、拒まれない温度だった。
外に出て、深呼吸をする。
白い息は、もう出なかった。
しのは、駅までの道をいつもと同じ速度で歩いた。
急がない。
遅れない。
ただ、時間通りに進む。
頭の中は静かだった。
考え事がないわけじゃない。
でも、考えが渦を巻くこともない。
信号で立ち止まったとき、ふとスマホを取り出す。
カレンダーアプリを開く。
午前中は原稿チェック。
昼前にオンライン会議。
午後に一件、褒め屋の予約。
夕方は空白。
予約があるか、ないか。
それだけを確認して、しのは画面を閉じた。
予約が入っていることに、安堵もしない。
入っていないことに、焦りもしない。
昔は、少し違った。
予約が続くと、どこかで安心していた。
必要とされている、という感覚があった。
でも今は、そういう手応えが、薄い。
薄いけれど、不安ではない。
ただ、凪いでいる。
電車に乗り、窓際に立つ。
流れていく街並みを、ぼんやりと見る。
春先の朝は、情報が多い。
新しいスーツ。
軽くなった足取り。
花屋の前に並び始めた色。
でも、しのの視界には、それらが「ある」という事実だけが入ってくる。
意味づけは、されない。
オフィスに着くと、席に座り、パソコンを立ち上げる。
メールを開く。
未読は三件。
すべて仕事の連絡だった。
クライアントから戻ってきた原稿の修正依頼が一通。
指摘は細かいが、感情的なものではない。
しのは黙って、文章を追い、赤字を入れていく。
原稿チェックを始める。
赤字を入れる。
言い回しを整える。
意味がずれないように、淡々と。
言葉を扱う仕事なのに、感情は使わない。
それは、意識しているわけではなく、癖のようなものだった。
オンライン会議では、進行役が話す。
しのは聞く側に回り、必要なところだけ短く発言する。
意見は感情を含まず、事実だけを選ぶ。
画面越しの相手が、何か冗談を言って笑っている。
しのも、口角を少し上げる。
反射的に。
会議が終わると、画面を閉じる。
部屋が静かになる。
静かすぎて、少しだけ耳鳴りがした。
しのは、カップにお茶を注ぐ。
湯気が立つのを、ただ見ている。
疲れてはいなかった。
体は、ちゃんと動く。
眠れている。
食事も取れている。
どこも、壊れていない。
でも、張り合いもない。
「楽しい」と思うこともないし、
「つらい」と思うこともない。
感情が、平らだった。
この仕事は、生活の中心だ。
褒め屋ではない、こちらの仕事は。
淡々としていて、それでいて確実で、誰かの人生に深く触れない。
午後の予約の時間が近づくと、しのは仕事を切り上げた。
いつものレンタルスペースへ向かう。
道中、スマホを見て、予約内容を確認する。
初回。
簡単なメモ。
特別な情報はない。
それでいい。
褒め屋は、生活の一部だ。
仕事の一つ。
しかし、生活の中心ではない。
でも、生活の外にも置けない。
特別な使命でも、救済でもない。
届かない褒めだってあるのだ。
そうやって位置づけておかないと、続かないことを、しのは知っていた。
レンタルスペースの前で、立ち止まる。
ドアノブに手をかける。
一瞬だけ、間が空いた。
ほんの一瞬。
理由は分からない。
不安でも、恐怖でもない。
やめたいわけでも、逃げたいわけでもなかった。
ただ、ここに入ると、また「誰かのための言葉」を使うのだと思った。
それだけだった。
しのは、ドアを開けた。
中は、いつもと同じだった。
白い壁。
机と椅子。
余計なもののない空間。
しのは、椅子に座り、深く息を吸った。
止まっていない。
ただ、走ってもいない。
誰かを支える言葉は使っている。
けれど、自分が支えられる場所は、ここにはない。
自分は強いのだろうか、と考えることはなかった。
強いと思ったことも、弱いと思ったこともない。
ただ、止まらない。
それだけで、ここまで来ただけだ。
「……まあ、こんなものか」
春の光が、窓から差し込む。
しのは、その光を眩しいとも、あたたかいとも思わなかった。
ただ、春だと分かった。
それだけの朝だった。




