第36話 褒めが届かない[3]
圭一はスマホを閉じた。
閉じても、胸の奥に残るものがある。
見えないところで、何かが遅くなっている感じ。
自分の中の時間だけが、ワンテンポずれている。
駅に着き、改札を出て、冬の空気に触れる。
吐いた息が白い。
白い息はすぐ消えるのに、不安だけは消えない。
圭一は、息が白いかどうかを確認する癖がある。
白いと「寒い」。
寒いと「今は冬」。
冬だと「年末が近い」。
年末が近いと「忙しくなる」。
忙しいと「何も考えなくて済む」。
考えなくて済む、はずだった。
それなのに、今日は考えてしまう。
――投稿がない。
それだけで。
一回だけ会った他人のSNSが止まっただけで。
自分がこんなに気にするのは、変だ。
圭一は自分をそう裁いて、でも裁ききれないまま、足を前に出す。
その夜、圭一はコンビニの夜勤を終えた。
レジの奥で小さく伸びをして、バックヤードの時計を見る。
いつもと同じ時間。
同じように体が重い。
同じように腰が痛い。
同じように、耳の奥がジンとする。
“いつも通り”は、優しい。
優しいのに、たまに怖い。
いつも通りなら、いつも通りに戻ってしまう。
戻る場所があるのは助かる。
でも、戻ってしまう場所しかないなら、少しだけ息が苦しくなる。
帰り道、圭一はまたスマホを開いてしまう。
自分の弱さが、指先に出ている。
投稿は――あった。
ただ、短い。
「本日は受付終了」
それだけだった。
いつもあるはずの注意書きがない。
いつもあるはずの温度のない“説明”がない。
あの人の文章には、いつも余計なものがなかった。
だからこそ、余計なものがなくなったときの違和感が、逆に大きい。
圭一は、息を止めた。
胸の奥が、妙に冷えた。
「……だいじょうぶか」
口にしてから、すぐに思う。
何が“大丈夫”なんだ。
自分は何を心配しているんだ。
心配したところで、何もできないのに。
できない。
できないのに、気配は拾ってしまう。
それが、見ているだけの立場の嫌なところだ。
圭一は通知欄を見て、何も来ていないのを確認する。
当たり前だ。
圭一は、しのと繋がっていない。
フォローしているだけ。
フォローは繋がりじゃない。
ただの“見張り”に近い。
見張り、という言葉を思いついて、圭一は苦笑した。
見張っているつもりなんてない。
守っているつもりもない。
守れるはずもない。
――じゃあ、なんだ。
圭一は、画面の小さな文字をもう一度読む。
「本日は受付終了」
終わり。
終了。
それはいつもある言葉だ。
ただ、今日は“時間”が違う。
いつもより早い。
圭一の夜勤明けより早い。
圭一が寝落ちする前より早い。
「受付終了」を早く出す日は、何があった日だろう。
予約が埋まって、終わった。
それなら、まだ分かる。
仕事がうまく回った、という終わりだ。
でも今日の終わりは、違う気がする。
“閉めた”感じがする。
“終えた”じゃなくて、 “閉じた”。
シャッターを下ろした感じ。
奥の灯りを消して、鍵をかけた感じ。
誰もいなくなった空間の、静かな圧。
圭一は、その想像が嫌で、画面を伏せた。
伏せても、想像は消えない。
むしろ暗くなったぶん、頭の中の映像がはっきりしてしまう。
白い壁。
机と椅子。
ぬいぐるみもポスターもない部屋。
あの日、自分が座った椅子の硬さ。
しのの視線。
距離。
距離があるのに、見捨てない目。
圭一は、あの目のことを思い出すと、いつも少しだけ背筋が伸びる。
叱られたわけじゃない。
励まされたわけでもない。
ただ、事実を見られた。
それが、圭一には“褒め”だった。
褒めだったのに。
褒めが届かない日がある、と圭一は今日、初めて現実として理解してしまう。
褒めが届かない。
届かないから、投げない。
投げないから、何も残らない。
何も残らないと、見ている側は余計に不安になる。
不安になるのは、勝手だ。
勝手なのに、勝手を止められない。
圭一は、スマホをもう一度開いた。
別に何かを探したいわけじゃない。
探すふりをしないと、ただ見ている自分が気持ち悪いからだ。
プロフィール画面に飛ぶ。
固定投稿。
過去の注意書き。
いつも見慣れた文言が並んでいる。
「治療ではありません」
「医学的判断はできません」
「事実に基づきます」
圭一は、その“いつも”を見て、余計に息が詰まった。
いつもはある。
いつもは書ける。
いつもは、あの人は淡々としている。
淡々としている人が、淡々とできない日。
“淡々とできない”という表現が、圭一の中で引っかかる。
淡々とできない、というのは、感情的になったという意味じゃない。
あの人が感情的になる姿は想像できない。
もっと別のものだ。
もっと手前。
言葉になる前の段階。
たとえば、ペンを取れない。
たとえば、文章を組み立てられない。
たとえば、短い言葉しか置けない。
圭一は、そこまで想像して、ぶつりと止まった。
想像が具体的になりすぎると、急に悪いことをしている気がする。
覗き込んでいる。
知らない他人の内側を、勝手に。
「……俺、何やってんだ」
声に出すと、冷えた空気が喉に刺さる。
コンビニの外壁に貼られた求人ポスターが、明るすぎる。
“急募”の文字が目に痛い。
圭一は歩きながら、また自分に言い聞かせる。
――連絡する理由もない。
――連絡する権利もない。
――この距離が、正しい。
正しい。
正しいはずだ。
正しい距離は、相手を傷つけない。
自分も傷つかない。
でも、正しい距離のまま、何かが壊れていくのを見てしまったら?
圭一は、その問いに答えを出せない。
答えを出してしまったら、自分はきっと動く。
動いたら、この物語は変わる。
変える役割が自分にあるのか、圭一はまだ分からない。
分からないのに、胸の奥が小さく疼く。
あのとき自分がもらった言葉が、
誰かには届かないのかもしれない、という想像だけで。
圭一は家に着いても、寝つけなかった。
布団の中でスマホを見れば、余計に眠れなくなる。
分かっている。
分かっているのに、手が伸びる。
夜勤は、生活の線を真っすぐにする。
眠る時間、起きる時間、食べる時間。
どれも作業みたいに並ぶ。
作業みたいに並ぶと、考えなくて済む。
考えなくて済むはずの夜に、圭一は考えてしまう。
――あの人、誰にも褒められてないのかもしれない。
思った瞬間、胸の奥が冷えた。
冷えたのに、目は冴えたままだった。
誰にも褒められていない。
それは“可哀想”とか“気の毒”とか、そういう感情の話じゃない。
圭一がぞっとしたのは、もっと単純な事実として。
褒め屋が、褒められない。
褒めを仕事にする人間が、褒めを受け取る場所を持たない。
それは、どこかで必ず折れる。
折れる、と圭一は思ってしまった。
思ってしまったことが怖い。
怖いのに、目を逸らせない。
圭一は、スマホを伏せた。
伏せても、世界は続く。
コンビニの蛍光灯みたいに、白く、平らに。
「……見てるだけだな」
声に出して、少しだけ苦く笑った。
見ているだけ。
見ているだけなのに、見ないでいられない。
そして、見ているだけでは守れないものがある、ということを、
圭一は初めて“自分のこと”として理解してしまった。
翌朝。
圭一が寝落ちして、目を覚ました頃には、タイムラインはいつも通りに流れていた。
誰かの朝食。
誰かの愚痴。
誰かの楽しそうな写真。
しのの投稿は――まだ、ない。
それだけで、圭一の胸の奥がまた遅くなる。
遅くなるのに、世界は速い。
世界だけが先に行く。
圭一は、布団の中で目を閉じた。
目を閉じても、白い壁の部屋が浮かぶ。
机と椅子。
言葉が置かれない時間。
圭一は、何も知らない。
何があったかは分からない。
それでも、分かってしまう。
“届かない日”があったのだ、と。
そして、届かない日が一日で終わるとは限らない、と。
圭一は、息を吸って吐いた。
白い息は、布団の中では見えない。
見えないのに、確かにある。
――観測者は動かない。
――ただ、見続ける。
そう決めたはずなのに。
その決め方が、今は少しだけ痛い。
圭一は、スマホに手を伸ばし、止めた。
伸ばして、止める。
それだけの動作が、妙に“判断”に見えた。
自分は、まだ動かない。
まだ、見続ける。
でも、胸の奥のどこかで、もう一つだけ、別の事実が育っている。
――見続けるだけの人間は、
――いちばん最後に、後悔する。
圭一は、その事実をまだ言葉にしないまま、布団の中で目を開けた。
天井は白い。
何も書かれていない。
何も書かれていないことが、こんなに重いと知ったのは、初めてだった。




