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あなたを褒める仕事をしています  作者: えんびあゆ
佐藤美代子編

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35/50

第35話 褒めが届かない[2]

その日、レンタルスペースのドアを開けたのは、主婦だった。

名前は佐藤美代子さとうみよこ

年齢は四十前後に見える。

髪はきちんと結んでいるのに、結び目だけが妙に頼りない。

服も整っているのに、どこか“着せられている”みたいだった。


三枝しのは、いつもと同じように椅子を示した。

いつもと同じ距離で、いつもと同じ声で。


「こんにちは」


美代子は、会釈をした。

会釈だけで、座るまでに少し時間がかかった。

椅子の背に手を置いて、置いたまま、動けない。


それは、蒼太がドアノブで止まったのと似ていた。

ただし、子どもの“怖い”とは違う。

大人の“止まる”は、体の外側が動いている分、内側がもっと止まって見える。


しのは急かさない。

急かさないが、見捨てもしない。


美代子はようやく椅子に座り、バッグを膝に置いた。

バッグの持ち手を、指が白くなるまで握りしめる。


「……」


言葉が出ない。


しのは机の上に、いつものメモ用紙を置いた。

ペンも置いた。

“褒め”の準備だ。


でも、しのはそのペンを取らなかった。

取ると嘘になる気がした。

今ここで、何かを褒める言葉を組み立てようとしたら、相手の体に触れてしまうような気がした。


美代子の目は、机の上を見ていない。

壁も見ていない。

しのの顔も見ていない。

視線の置き場がない人の目だった。


「……今日は」


美代子がやっと声を出した。

音が小さいのに、耳に刺さる。

乾いた声。


「……褒めて、ほしい、んです」


言った瞬間、美代子の唇が震えた。

震えたのに、泣かなかった。

泣く力もない、という感じだった。


しのは、すぐには返事をしなかった。

“返事”が軽くなるのが怖かった。

いつもなら、ここで“仕事として”言える。


「治療ではありません」

「事実に基づきます」

「できる範囲で行います」


でも今日は、その言葉が全部、紙みたいに薄く感じた。

紙を重ねても、壁にはならない。

この人の前に置くには、軽すぎる。


美代子は続けた。


「……でも、今は、何を褒められても、たぶん……」


そこで言葉が切れた。

切れた言葉の後ろに、いくつも意味が詰まっているのが分かる。


――届かない。

――信じられない。

――受け取れない。


しのは頷いた。

肯定でも否定でもない頷き。

“今の事実を受け取った”という合図。


「……最近、眠れなくて」


美代子は、それだけ言った。

それだけで、もう喉が詰まる。

唾を飲み込む音が聞こえた。


「家のこと、子どものこと、仕事のこと。……全部、やってるはずなのに、全然、やってないみたいで」


しのは、その言葉をメモしようとして――やめた。

書くと、整理したように見えてしまう。

整理は、たぶん今じゃない。


美代子は、バッグの持ち手を握り直した。

何度も。

同じ場所を、何度も。

そこに自分がいることを確かめるみたいに。


「……私、誰かに“えらいね”って言われたいんです。

でも、“えらいね”って言われた瞬間に……」


美代子の眉が、ほんの少しだけ寄った。

痛みの形。


「……違う、って思ってしまう」


しのは、息を吸った。

“褒めが届かない”という現象は、こういうふうに来る。

言葉が当たる前に、受け取る側が避けてしまう。

避けているという自覚すらなく。


しのは、ここで初めて言った。


「今日は、褒めない時間にしましょう」


美代子の目が、ほんの少しだけ動いた。

驚いたというより、理解できないという動き。


「……褒めないんですか」


「褒めると、今のあなたに届かない感じがします。届かない言葉を、仕事として投げたくない」


言いながら、しのは自分の胸の奥が少し痛むのを感じた。

これは、依頼者の痛みじゃない。

自分の仕事が、ここで役に立たないことへの痛みだ。


美代子は、しのを初めて見た。

見たと言っても、焦点が合っているかは分からない。

ただ、“そこに人がいる”と確認したような目。


「……じゃあ、何を……」


しのは、短く答えた。


「話せる分だけ、話してください。

話せない分は、話さなくていいです」


美代子はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「……私、今日、ここに来るのも、やめようと思ってました」


しのは頷いた。


「でも、来ました」


それは褒めじゃない。

事実だ。

事実なのに、主婦の目の端が少しだけ濡れた。


「来たのに、何も言えないのが……」


美代子はそこで息を詰めた。

肩が小さく揺れた。

泣くのではなく、崩れる前の揺れ。


しのは、言葉を探した。

探して、見つからない。

見つからないことが、怖い。


今までなら、“事実の褒め”を渡せた。

誰にでも同じではない、でも仕事として。

依頼者に合わせて、言葉を作れた。


なのに、今日は。

言葉が、軽い。


しのは、手を動かした。

メモ用紙の端に、小さく線を引くだけ。

意味のない線。

ただ、沈黙の中で自分がここにいる証拠。


美代子はその線を見て、少しだけ呼吸を整えた。

線が、誰かの心を救うわけじゃない。

でも、ここに“時間が続いている”ことを示すには十分だった。


美代子は、しばらくして言った。


「……すみません。こんなの、仕事にならないですよね」


その言葉で、しのの胸がもう一段沈んだ。

依頼者が自分を責め始めると、空気がさらに重くなる。

重さの中心が、しのの方へ寄ってくる。


しのは、静かに否定した。


「仕事です。ただ、今日は“褒める仕事”ではなくて、“ここにいる仕事”です」


美代子は目を伏せた。

その伏せ方は、安心と諦めの中間だった。


しのは、言い直したい衝動を飲み込んだ。

“ここにいる仕事”なんて、契約書にはない。

値段がつかない。

だからこそ、ここでやりすぎたら、自分が壊れる。


しのは、自分の限界を知っていた。

限界の近くに、今この人がいる。

それが分かってしまうのが、一番怖かった。


―――褒めが届かない。ここから『褒め屋』の異変が始まる。

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