第33話 ほめられたことが、よくわからない[6]
翌朝。
宮原蒼太は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
目が覚めた、というより、胸の奥が先に起きていた。
昨日のことが、夢みたいに遠くなっていない。
でも、はっきりした形でも残っていない。
指の間からすり抜けた砂が、まだ手のひらに少し残っている、そんな感じだった。
布団の中で、蒼太は天井を見た。
――好き。
その言葉を思い出そうとすると、
胸の奥が少しだけ熱くなる。
でも、嬉しいのか怖いのかは、まだ分からない。
分からないまま、でも、嫌じゃない。
蒼太は、ゆっくり体を起こした。
いつもより、少しだけ動きが慎重だった。
転ばないように、じゃない。
昨日の感覚を、こぼさないように。
朝ごはんの席で、お母さんが言った。
「今日は、なんか静かだね」
蒼太はスプーンを止めた。
「……そう?」
「うん。ぼーっとしてるっていうより、考えてる顔」
“考えてる顔”。
それは、蒼太にとって珍しい評価だった。
いつもは「大丈夫?」「眠い?」のどちらかだ。
「……うん」
それ以上は言わなかった。
言えなかった、というより、言わなくていい気がした。
学校へ向かう道。
足取りは相変わらず遅い。
ランドセルが少し重い。
それでも、昨日より前に出ている感じがした。
教室に入ると、篠原陽菜はすでに席にいた。
昨日と同じ赤いマフラー。
今日はちゃんと首に巻いている。
蒼太は、席に着く前に一瞬だけ迷った。
何か言うべきか。
昨日の続き。
返事。
でも、陽菜の方が先に言った。
「……宮原、消しゴム」
ぶっきらぼうな声。
いつも通り。
蒼太は机の上を見た。
確かに消しゴムがない。
昨日、落としたままだった。
「……ない」
陽菜は、舌打ちする代わりに、
自分の筆箱から消しゴムを一つ出して、蒼太の机に置いた。
「はい。返すのは、いつでもいい」
“いつでもいい”。
その言葉に、蒼太は一瞬だけ顔を上げた。
昨日までなら、
「ちゃんと返してよ」
「無くすなよ」
が続いていたはずなのに。
陽菜は、蒼太を見なかった。
ノートを開きながら、いつもと同じように言った。
「……あと、きょうは“それ”言わないから」
蒼太は、何のことかすぐに分かった。
“ノロマ”。
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
ほどけたけれど、広がりすぎない。
ちょうど、息がしやすくなるくらい。
「……ありがとう」
蒼太の声は小さかった。
でも、昨日より震えていなかった。
陽菜は、ぴたりと手を止めた。
それから、顔をしかめた。
「……なに、それ」
「……消しゴム」
「それだけ?」
蒼太は少し考えて、首を振った。
「……それだけじゃないけど」
言葉が、そこで止まった。
止まったけれど、詰まらなかった。
止まることが、悪いことじゃない、という感じがした。
陽菜は、ふっと鼻で笑った。
「……ほんと、めんどい」
言い方はきつい。
でも、その声は昨日より少し低くて、落ち着いていた。
授業が始まる。
先生の声。
黒板の音。
いつもの一日。
でも蒼太は、昨日までと同じ場所にいない気がした。
前に進んだわけじゃない。
ただ、立ち止まる場所が、自分のものになった。
昼休み。
陽菜は友だちと走って行った。
蒼太はそれを見送った。
胸が、少しだけチクっとした。
それが何なのかは分からない。
――これが、好き?
すぐに答えを出そうとして、やめた。
昨日の公園で、順番をもらった。
今は、まだこのままでいい。
放課後。
蒼太は、ランドセルを背負いながら、昨日の場所を思い出した。
南の公園。
ブランコ。
揺れ。
今日は、そこへ行かない。
行かなくても、大丈夫だと分かっている。
帰り道、蒼太はポケットに手を入れた。
そこには、もう紙はない。
自分で言えた。だから必要ない。
でも、言葉は残っている。
――自分を守る言葉。
蒼太は、今日、守れた。
全部じゃない。
完璧でもない。
でも、一回。
家に着く前、蒼太は立ち止まった。
昨日と同じ場所。
昨日は、ここから逃げたくなった。
今日は、逃げたい気持ちが来る前に、息ができた。
「……ぼく」
声に出して、止めた。
続きは、まだいらない。
その日の夕方。
蒼太は、もう一度レンタルスペースを訪れた。
三枝しのは、いつもの部屋で待っていた。
ぬいぐるみも、飾りもない部屋。
蒼太は、封筒を差し出した。
「……これ、いらないって、言ってたけど、やっぱり少しでも払うべきだと思って」
中には、やはり足りていないが昨日と同額のお金が入っていた。
しのは、封筒を受け取らなかった。
「今回は、受け取りません」
蒼太は、驚いた。
「……ぼく、まだ……分かってないです」
「分かっていない、という判断ができています」
しのは、淡々と言った。
「今回は、私が何かを渡したわけではありません」
蒼太は、考えた。
昨日の言葉。
公園。
陽菜。
確かに、決めたのは自分だ。
「……じゃあ」
蒼太は、少しだけ勇気を出して聞いた。
「また来る、って決めたわけじゃないけど…迷ったら、来てもいいですか」
しのは、少しだけ間を置いた。
「必要だと思ったら。今じゃなくても」
その言葉は、約束でも拒否でもなかった。
“預けないでいい”という選択肢だった。
蒼太は、うなずいた。
帰り道、空は昨日より明るかった。
雲はまだある。
でも、切れ間が広がっている。
蒼太は、自分の中で一つだけ、確かなことを持ち帰った。
――ほめられたことは、よくわからない。
――でも、言葉を受け取った。
それだけで、今日は十分だった。
蒼太は、歩いた。
相変わらず遅い。
でも、昨日より前を見て。
泣き虫で、大人しくて、優しいまま。
少しだけ、強くなったまま。




