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あなたを褒める仕事をしています  作者: えんびあゆ
宮原蒼太編

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第32話 ほめられたことが、よくわからない[5]

放課後。

チャイムが鳴ると同時に、蒼太の胃がきゅっと縮んだ。


陽菜は、机の横に立って、蒼太を見下ろした。


「来るよね」


質問の形だけど、命令に近い。

でも今日は、それが少しだけ救いだった。

“行かない”を選ぶ余白がない方が、蒼太は歩き出せる。


蒼太は小さくうなずいた。


校門を出て、南の公園へ向かう道。

冬の夕方の風は冷たい。

蒼太は歩きながら、自分の足音が聞こえるのが怖かった。

足音が遅い。

遅いと、陽菜に言われる。


実際、陽菜は振り返って言った。


「……宮原、遅い。歩幅合わせて」


蒼太は慌てて歩幅を広げた。

広げると、足がもつれる。

もつれると、また言われる。


「ほら、そういうとこ!」


陽菜は舌打ちして、蒼太の袖を掴んで引いた。

引き方が乱暴で、でも引いた距離はちょうどよかった。

蒼太は転ばなかった。


袖を掴まれた感覚が、変に残った。

痛いのに、怖さが少し減る。


公園が見える。

滑り台とブランコ。冬の夕方で子どもは少ない。

砂場の端に枯れ葉が溜まっている。

蒼太は、その枯れ葉に目がいった。

踏んだら音がする。音がすると、心が現実に引っ張られる気がした。


陽菜は公園の入口で止まった。

止まり方が、いつもと違う。

勢いがない。

強い子が急にスピードを落とすと、蒼太は余計に怖くなる。


陽菜は、ブランコの鎖を指で弾いた。

金属が小さく鳴る。

それだけの音がやけに大きかった。


「……座る?」


陽菜が言った。

蒼太が答える前に、陽菜はブランコに座った。

蒼太は隣に立ったまま、どうしていいか分からない。


「立ってんの、邪魔」


言い方はいつも通り。

蒼太は反射で「ごめん」と言いそうになって、昨日の紙を思い出した。


――きょうは それ やめて


蒼太は、喉が熱くなるのを感じながら、小さく言った。


「……ごめん、じゃなくて……えっと」


陽菜が眉を上げる。


「なに」


蒼太の指がポケットを探りそうになる。

紙。

でも、紙を握るんじゃなくて、言葉を握れ。


蒼太は、息を吸った。

吸うと、胸の石が転がった。


「……きょうは、それ……やめて」


声が小さかった。

でも、言えた。


陽菜は、一瞬だけ固まった。


「……は?」


蒼太は膝が震えた。

逃げたい。帰りたい。

でも、帰るなら帰るでいい、と昨日言われた。

だから、今はまだここにいていい。


蒼太は続けた。

理由は言わない。

言うと詰まる。


「……その、“ノロマ”とか。そういうの」


陽菜の目が、すっと細くなった。

怒ったようにも見える。

でも、怒りじゃない別のものが混じっている。


「……言われたくないわけ?」


蒼太は、うなずいた。

うなずき方が、情けない。

でも、うなずいた。


陽菜は、ブランコを小さく揺らした。

きい、と鎖が鳴る。

揺れは大きくない。

陽菜はいつも走っているのに、今日は揺らし方が慎重だった。


「……じゃあさ」


陽菜は言った。


「なんで言わないの。いつも黙ってんじゃん」


蒼太は答えに困った。

困ると泣く。

泣くと終わる。

終わらせたくない。


蒼太は、昨日のしのの言葉を思い出した。


――自分を守る言葉。


蒼太は、正直に言った。


「言うと……泣くから」


陽菜は、顔をしかめた。

蒼太を馬鹿にする顔じゃなかった。

困った顔だった。


「……泣くの、嫌い」


陽菜の口から出たのは、いつもの強い言葉じゃなくて、ほとんど独り言みたいな音だった。


蒼太は、そこに引っかかった。

嫌い。

蒼太が泣くのが、陽菜は嫌い。

蒼太を困らせるのに?


矛盾。

でも、陽菜は矛盾したまま、いつも同じことをしている。

きついことを言って、でも蒼太を壊すところまでは行かない。

むしろ、“蒼太が止まる瞬間”を押して動かす。


蒼太の中で、ゆっくり確信が育った。

これは、叩くためじゃない。

叩いて終わりじゃない。

叩いて、何かを変えようとしてる。


変えようとしているのが、蒼太なのか、陽菜自身なのかは分からない。

でも、少なくとも“捨てる”行動ではない。


蒼太は、気づいてしまって胸が痛くなった。

気づいたら、今まで「いじめ」だと思っていた自分が、少しだけ恥ずかしい。

でも、恥ずかしいだけじゃない。

なぜか、少しだけ嬉しい。


陽菜がブランコを止めて、地面に足をついた。

靴底が砂をこする。


「……あのさ」


陽菜は蒼太を見た。

見方が、正面だった。

いつもは斜めから刺すみたいに言うのに、今日は真正面だった。


「宮原、ほんとノロマで、ぼーっとしてて、すぐ泣くじゃん」


蒼太の胸がきゅっと縮む。

また来る。

でも、陽菜の声は、いつもの“笑い”がない。

からかいのテンポがない。

一個ずつ、確認するみたいに言っている。


「……うん」


「それでもさ」


陽菜は、言い直した。

言い直した瞬間、頬が少し赤くなった。

寒さじゃない赤さ。


「……それでも、優しいじゃん」


蒼太は、息が止まった。


陽菜は、すぐに視線を逸らして、砂を蹴った。


「昨日さ。私、理科のプリント、まじで分かんなくて。宮原、説明してくれたじゃん」


蒼太は、思い出した。

確かに説明した。

でも、蒼太にとっては小さいことだった。

頼まれたからやっただけ。

当たり前。


陽菜は続ける。


「なのにさ、みんなの前だとさ、私が“分かんない”って言うの、ムカつくんだよ。だから言えない」


陽菜の言葉が、少しだけ震えた。

陽菜も、言えないことがある。

その事実が、蒼太の頭の中で静かに音を立てた。

陽菜は強いだけの子じゃない。


陽菜は蒼太を見ないまま言った。


「だから、宮原に言われたら、ムカつかない。……なんでか分かんないけど」


蒼太は、胸の奥が熱くなった。

熱いのに、言葉が出ない。

これは褒め?

褒められた?

でも、褒められたことが分からない。


蒼太は、昨日のしのの言葉を思い出した。


――褒めたというより、判断を言葉にした。


今の陽菜の言葉は、褒めるために出てきた言葉じゃない。

陽菜が自分の中の何かを整理するために、出てきた言葉に見えた。

それが、蒼太には重かった。


陽菜が、急に顔を上げた。


「……だからさ」


言い方が、急だった。

急にすると、照れが隠れる。


「宮原といると、私、なんか……変になる」


蒼太は、何も言えなかった。

変になる。

変になるのは怖い。

でも、陽菜の“変”は悪い意味じゃないような気がする。


陽菜は、ぶっきらぼうに言った。


「……好き、なんだと思う」


その瞬間、世界の音が一段小さくなった気がした。

車の音も、風の音も、遠くなって、陽菜の声だけが残った。


蒼太は、すぐに分からなかった。

好き。

それは、告白?

テレビで見るやつ。

でも自分は、テレビの主人公じゃない。

自分は泣き虫で、ノロマで、声が小さい。


陽菜は、蒼太の反応がないのを見て焦ったみたいに言った。


「……なに、その顔。引いてんの?」


蒼太は、慌てて首を振った。

振りすぎて、また泣きそうになる。


「ち、ちがう……」


「じゃあ何」


蒼太は、言葉を探した。

“恋心”が分からない。

分からないから、答えが出ない。

でも昨日、しのは言った。

答えを急がなくていい。

結論を書かない方がいい。


蒼太は、出せるところだけ出した。


「……ぼく、よく分かんない。好きって言われたこと、ないから」


陽菜が一瞬だけ黙った。

その沈黙は怖くなかった。

陽菜が初めて、“止まった”沈黙だったからだ。


陽菜は、鼻をすすって言った。

泣いてはいない。

でも、声の奥が少しだけ濡れている。


「……じゃあ、いい。今すぐ返事じゃなくていい」


蒼太は目を丸くした。

陽菜がそんなことを言うのが意外だった。

いつもは決める。決めさせる。押す。

でも今は、順番をくれた。


陽菜は強いふりをして、早口で続けた。


「たださ。明日から、私が“ノロマ”って言ったらさ、今日みたいに言え。やめてって」


蒼太は、小さくうなずいた。

それは、返事じゃない。

でも、受け取った、という合図だった。


陽菜は、またブランコを軽く揺らした。

そして、いつもの声に戻そうとして、言った。


「……宮原、ほんとめんどい」


言い方はいつも通り。

でも、語尾が少しだけ柔らかかった。


蒼太は、笑っていいのか分からなくて、でも口元が少しだけ動いた。

笑いじゃない。

ほどけた、だけ。


帰り道、蒼太はポケットの中の紙に触れた。

紙は、今日、使った。

言えた。

言った。

それだけで、胸の石が少し小さくなった気がした。


恋心は、分からない。

まだ分からない。

でも、陽菜の言葉が胸に残っている。


――優しいじゃん。


それは、蒼太の中で、昨日の“証拠”と同じ質感で残った。

誰かの気分で消えない、重さ。


蒼太は、空を見上げた。

灰色の雲の切れ間に、薄い光が見えた。

冬の光は冷たい。

でも、見えるだけで少し違う。


家に着く前、蒼太は公園の入口で一度だけ振り返った。

陽菜はいない。

ブランコも、もう揺れていない。


それなのに、蒼太の胸の中にはまだ“揺れ”が残っていた。

怖い。

でも、嫌じゃない。

嫌じゃない、が分からない。


蒼太は、自分の中で一つだけ、今日の結論じゃないものを置いた。


――敵意はなかった。言葉には優しさが含まれていた。


確信が育ったのは、その言葉だった。

恋じゃない。

告白の答えでもない。

でも、“いじめじゃない”と分かっただけで、世界が少し静かになった。


蒼太は、歩き出した。

まだ泣き虫で、まだ遅い。

それでも、今日は昨日より、息ができていた。

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