第1話 褒め屋は、検索すれば出てくる[1]
午前四時半。
コンビニの裏口から外に出た瞬間、冬の空気が肺の奥まで刺さって、佐久間圭一は反射的に肩をすくめた。
身長は一七〇センチほど。
体格は痩せても太ってもいないが、どこか締まりがない。
夜勤の制服の上から羽織った黒いダウンは、三年前に買ったままのものだ。
流行っているわけでも、古びているわけでもない。
「無難」と言われる服を、圭一は好んで選ぶ。
目立たない。
誰かに覚えられない。
それが、一番安全だからだ。
裏口のドアを閉めると、店内の白い光が遮断される。
代わりに、街灯と自販機の光が、冷えた歩道を照らしている。
夜勤明けの街は、圭一にとって都合がよかった。
人が少ないからではない。
人が少ない分、誰にも役割を求められないからだ。
仕事中の圭一は「店員」だ。
名札に書かれた名前で呼ばれ、
お釣りを間違えないこと、
笑顔を作ること、
トラブルを起こさないことを求められる。
でも、今は違う。
名札も、役割も、期待もない。
――何者でもない時間。
それは、楽でもあり、少し怖くもあった。
駅へ向かう道。
シャッターの下りた店。
まだ動き出していない街。
圭一は歩きながら、無意識に自分の姿を確認する。
ガラスに映った顔は、思っていたより疲れている。
三十代前半。
白髪はないが、目の下に薄い影がある。
特別老けているわけじゃない。
でも、「若さ」が武器になる年齢でもない。
――中途半端。
その言葉が、圭一の自己評価だった。
信号待ちで立ち止まり、スマホを取り出す。
画面を点ける理由は、通知があるからじゃない。
ただ、手に持っていないと落ち着かないだけだ。
検索窓が表示される。
白い空欄。
圭一は、しばらく何も打てずにいた。
自分が何を欲しがっているのか、分からないわけじゃない。
むしろ、はっきり分かっている。
――褒められたい。
その事実が、どうしても受け入れられない。
褒められたいのは、頑張っている人間だ。
成果を出した人間だ。
胸を張れる理由がある人間だ。
夜勤でコンビニに立ち、帰って寝て、起きて、また同じ場所に行く。
そんな生活をしている自分が、何を褒められるというのか。
それでも、指は動いてしまう。
「褒めてほしい」
文字を打ち込んだ瞬間、喉の奥がきゅっと締まる。
まるで、誰かに聞かれたみたいに。
――情けない。
――恥ずかしい。
――こんなこと考えるな。
自分の中の「正しさ」が、すぐに殴りかかってくる。
でも、検索は声じゃない。
スマホの中なら、誰にも聞かれない。
圭一は、その逃げ道に甘えた。
エンターを押す。
並ぶ検索結果。
自己肯定感。
承認欲求。
メンタルケア。
どれも間違っていない。
でも、どれも自分を「治す対象」にしてくる。
――壊れてない。
――ただ、疲れてるだけだ。
そう言い返したくなる。
圭一が欲しいのは「あなたはそのままでいい」という大きな言葉じゃない。
もっと小さくて、具体的なものだ。
今日も遅刻しなかったこと。
クレームを受け流したこと。
理不尽な客に声を荒げなかったこと。
陳列に賞味期限チェックをきちんとやったこと。
店内掃除をサボらなかったこと。
引継ぎを丁寧に出来たこと。
そういう一つ一つを、
「ちゃんとやっている」と言ってほしかった。
スクロールを止める。
「褒めてくれる代行」
半ば投げやりに打ち込んだ言葉が、意外な場所に辿り着く。
怪しい広告の合間に、やけに静かな文章があった。
「あなたを褒める仕事をしています」
SNSのアカウント。
アイコンは淡いグレー。
自己主張しない色。
――三枝しの。
タイムラインを開く。
「褒めは治療ではありません」
「私は専門家ではありません」
「それでも、言葉が必要な人がいることを知っています」
圭一は、画面から目を離せなかった。
「褒め屋?褒めるだけで金をとる。なんだそれ?」
熱がない。
救おうとしない。
変えようともしない。
それが、逆に怖かった。
――この人は、逃がしてくれない。
固定投稿に、予約方法が書いてある。
料金も、時間も、形式も、すべて明確だ。
曖昧じゃない。
感情を煽らない。
圭一は、そこに妙な安心感を覚えた。
予約フォームを開く。
名前。
連絡先。
希望日時。
最後に、「褒めてほしいポイント」。
指が止まる。
書けない。
自分で自分を褒めることが、一番信用できなかった。
だから、空欄のまま送信する。
送信完了。
胸の奥に、小さな罪悪感が生まれる。
お金を払って、言葉を買う。
それは、自立できていない証拠みたいだった。
それでも、圭一は歩き出す。
信号は青。
街は変わらない。
世界は今日も回る。
――何も変わらない。
ただ一つだけ、
自分が「褒められたい」と思っていることを、もう誤魔化せなくなった。
白い息はすぐに消える。
だが、胸の奥に残った感情だけは、消えなかった。




