第6話 新しい生活と初めての自由、そして王子さまとの再会
下宿での生活はこれまでの侯爵邸での暮らしとはなにもかもが違っていた。
朝早くから女将が活気のある声で客たちを送り出し、市場から届く新鮮な野菜の匂いが漂う。
最初は戸惑うばかりだった。
わたしは、自分自身が無愛想で人から好かれるような性分ではないと思っていたからだ。
だから、父たち貴族が『下々』と呼ぶ人たちとは根本的に違うのだと心のどこかで思い込んでいた。
見下していたわけではない。
けれど、積極的に関わることもなかった。
そうして壁を作っていたのは自分自身だったのだろう。
けれど、今ここで触れ合う人たちの温かさは嘘偽りなく真実で心の奥からじんわりと暖かくなっていく 。
「セレナさん、無理しないでね」
「お嬢さんに申し訳ないよ、そんなに動かなくていい」
そんな言葉を受けながらも、わたしは下宿の仕事を手伝うことにした。
与えられてばかりの自分が嫌だったから。
「手伝わせてください」
「そ、そんな……貴いお方に仕事なんて……」
「恩を返したいんです。いずれここを去るから。それまでにできることをやっておきたいんです」
「そこまで言うなら……」
最初は掃除や洗濯、食事の準備など慣れないことばかりで戸惑いもあった。
手つきもぎこちなく、何度も失敗した。
でも、やっていくうちに少しずつ慣れていった。
生活力が上がっていく実感もあった。
「わたし、こういうこともできるんだ」
これまでのわたしにはなかった感覚だった。
貴族としての格式ばかり気にしていた自分が少しずつ自由になっていくのを感じた。
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下宿での生活はこれまでの人生で経験したことのない毎日の連続だった。
物質的には不便なことも多かった。
豪奢な食事も、着飾るためのドレスもない。
けれど、ここにはわたしの居場所があった。
下宿の台所には朝の光と共にパンの香ばしい匂いが立ちのぼり、女将さんと近所の子どもたちの笑い声が響いていた。
それを耳にしながらわたしは小さな庭の洗濯物を干す。
誰にも命令されるわけでもなく、ただ誰かのためになることをしている、そんな感覚が心地よかった。
「ねぇねえ。セレナさんってお貴族さまだったってほんと?」
ある日、小間使いの少女が目を輝かせて尋ねてきた。
「……だった、というより、そう育てられてきただけよ」
「ほぇ~すごいね~」
わたしは曖昧に笑って答えた。
不思議なことにもうその肩書きにしがみつく気持ちはなかった。
この自由な生活の中で、わたしはようやく『わたし自身』でいられるような気がしていた 。
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そんなある日、街角で彼と再会した。
あの雨の中、わたしを助けてくれた金髪碧眼の青年。
高貴な空気を纏った寡黙でどこか孤高の雰囲気を持つ人。
「あ……」
言葉が出なかった。
わたしが彼に気づいたのと同時に彼もこちらを見ていた。
けれど、視線はまっすぐなのにどこか探るような優しさがあった 。
「あの……この前助けていただいたお礼を――――」
なにかを話そうと口を開いたその瞬間、ある記憶が頭の奥で弾けた。
子どもの頃、ほんの一度だけ連れていかれた王宮の庭園。
そこで出会った少年の姿。
迷子になりかけたわたしに声をかけてくれた、凛とした瞳の少年。
――――そうだ、あれは……。
(ユリウス……王子……)
口に出すことはなかった。
けれど、確信はあった。
わたしが知っている王子の名は『ユリウス』。
この国の第二王子だ。
「驚いたな。お忍びでこっちに来ていたというのに俺のことを知っている人がいるとは――――やはりお前は貴族の令嬢だったか」
彼の瞳は昔のあの少年と同じ光を湛えていた 。
「あ、あの! ……あなたに昔お会いしたことがございます!」
言葉がこぼれたのは自分でも驚くほど自然だった。
「覚えていないかもしれませんが……わたし、あなたを見て、『理想の人間』だと……そう思ったんです。真っすぐで自分を持っているそんな人」
彼の金のまつげがわずかに揺れる。
けれど、なにも言わず、ただ静かにわたしの話を聞いてくれていた。
「レオナルドさまに婚約破棄されたときも……わたし、あなたのような強さを持とうって思ったんです。くじけそうになっても、誇りを失わないように。誰にも認められなくても、自分だけは自分を見失わないようにって」
「……」
「すみません。急に言いたいことばっか言ってしまって――――あ、助けていただいてありがとうございました。あなたのおかげで今日も元気に生きています」
言い終えたあと、妙な静寂があった。
まるで、冬の朝の空気のように澄んでいて、ひりつくような沈黙。
「……立派な人だ」
ぽつりと彼が言った。
低く、けれど胸に沁みる声だった。
「そ……そんな」
もったいない言葉だ。
彼ほどの高貴な人間からそうそういただけるような言葉じゃない。
「なんでお前はあそこで倒れていたのか……差し支えなければ教えてほしい」
「王都に行って官吏の試験を受けようと思って――――」
家を飛び出した事情については触れなかった。
彼もそれを察したのか、特に追求するようなこともせず、ただ優しく頷いていた。
「官吏の試験を受けに来たんだろう? 本来なら、もうすぐ願書の締切だ」
「……はい。でも、ここで働きながら生きていくのも悪くないかもって思えてきて」
自分でも驚くような本音だった。
官吏の道はずっとわたしの希望だった。
でも今は穏やかに暮らしていける日々がなによりも貴重に思えた。
「そうか。それもよいな――――ただ。もし、勉学を続けたいなら」
彼が少し目を伏せ、なにかを迷うようにしながら、それでもはっきりと口を開いた。
「王都の中央図書館で働くのはどうだ? 住居もある。書物も多く、学びにも適している。真面目に働く者には支援も出る。しかも官吏ほど忙しくないからこの下宿屋に顔を出すこともできる」
わたしは思わず目を見開いた。
あまりにも、思いがけない提案だった。
「……なぜ、わたしにそこまで?」
聞かずにはいられなかった。
けれど、彼はただ微笑んだだけだった 。
「君にはそれだけの価値があると思った。……それだけさ」
言葉に嘘はなかったと思う。
他の人が同じことを言っても信じなかっただろう。
『貴族の娘を下宿屋で働かせ続ければ王室の名誉にも傷がつく』
普通ならそういった本音を隠しながら王都に来るようにそれとなく言うはずだ。
でも、なんとなくだけれどこの人は純粋な善意からそう言ってくれたのだと感じた。
不思議とそう思えたのだ。
そして、わたしは素直に頭を下げた。
「……ありがとうございます。わたし、行ってみます」
その足で下宿へ戻るとすぐに女将さんに事情を話した。
彼女は寂しそうに笑いながら、肩をぽんと叩いてくれた。
「セレナちゃんはこんなところに収まる器じゃないって思ってたさ。元気でね。困ったことがあったら、いつでも戻っておいで」
その温かさに胸がいっぱいになった。
下宿での短い日々は、わたしのなかで大切な宝物になっていた。
荷物といっても多くはない。
数着の衣服と何冊かの本。
あと女将さんが作ってくれたお弁当。
それを風呂敷に包み、わたしは小さな決意とともに王都の中央図書館を目指して歩き出した。
「今までありがとうございました! 行って参ります!」
そうして始まる、わたしの新しい人生。
まだ、どんな未来が待っているのかわからない。
けれど、わたしはもう誰にも流されない。
自分の足で自分の人生を切り開くのだ。
胸の奥で静かに燃える炎のような決意があった。
――――ユリウス王子。あなたのおかげでまた一歩、前に進めそうです。
今度お会いできたら、お礼を言わせてください。
きちんと顔を見て。
そして、そのときこそ……あなたの名前をちゃんと呼びたい。
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