第5話 美麗な貴人との不思議な出会い
侯爵邸を飛び出したあの日、わたしは本当になにも持っていなかった 。
文字通り、身一つで家を出たのだ。
残念なことに旅装束にふさわしい簡素な服すら、手元にはわずかしかない。
年頃の娘が持っていて当然の華やかなドレスも、季節ごとの帽子や靴もほとんどない。
その理由は単純だ。
わたしが気に入って選んだものは必ずといっていいほど奪われていたのだ――――妹のリリアナに。
「お姉さまには似合いませんわ」
と、言われ、いつの間にか彼女の部屋に移されていたからだ。
父も継母もそれを見て見ぬふりをしていた。
いや、むしろ喜んでいたのかもしれない。
「やっぱりその服はリリアナに似合うな……」
「そうね。セレナにはもったいないわ。セレナいいわよね」
「――――なっ、そんな勝手に!」
リリアナが着飾って笑えばそれで満足なのだ。
わたしが陰で泣いていようと、どうでもいい。
そんな冷たい空気がこの家には確かにあった 。
________________________________________
宝石の1つもわたしは持っていなかった。
侯爵令嬢としてはありえないことだろうけれど、実際そうなのだから仕方がない。
小さなペンダントですら、リリアナに
「お姉さまにはもったいないわ」
と、言われたことがある。
あのときのわたしは呆れてものを言えず、ただ黙って引き下がった。
だから、わたしは手ぶらだった。
なにも持たず。
ただ、屋敷を飛び出した。
これが今世一代の決意であることは間違いないと思う。
あのまま家にいればいずれわたしは修道院に押し込められ、名前すら忘れられてしまったまま、枯葉のように朽ちて消えてしまう。
そんな未来をわたしは黙って受け入れるわけにはいかなかった。
わたしは腐りたくなかったのだ。
誰にも望まれず、愛されず、ただ『不始末』として片付けられるような人生なんて、絶対に嫌だった 。
「頑張るわよ、セレナ」
だから、わたしは歩き出したのだ。
目指すは王都。
遠く、輝く都。
わたしの知識と力だけで新しい人生を始める場所。
そこで官吏の試験でも受けて、自分の足で生きていこうと決めた。
わたしはできる。
あの難関と言われる試験だって、きっと合格してみせる。
そう。机に向かう時間と頭の中にある知識だけは奪われなかったから。
でも――――。
「……ふふ、甘かったわね、セレナ」
誰にともなく、わたしは呟いた。
唇が震え、視界が揺れている。
腹の底が空洞のように冷たく、脚はもう鉛のように重い。
――――王都は遠すぎた。
貴族の娘であるわたしが1人で歩いて旅をする。
そんな体力なんて、あるはずがなかった。
馬車を雇う金もなく、友人もいない。
食事すら、昨日の朝から口にしていなかった。
そもそも、どうして気づかなかったのだろう。
お腹が空けば身体は動かなくなる。
当たり前のことなのに。
「焦って思考が鈍っていたのかしら。わたしって馬鹿……」
――ざぁぁああ、と空から雨が降り出したのはわたしが王都を目指して歩き始めて3日目の夕方だった 。
「雨……」
ぽつ、ぽつ、と肌に冷たいものが当たる。
やがてそれは激しさを増し、あっという間に地面はぬかるみ、視界は雨で霞んでいった。
わたしはもう立っていることすらできなかった。
足元が崩れ、泥の中に崩れ落ちる。
意識が遠のいていく。
(ダメ……ここで、終わりたくないのに……)
けれど、わたしの願いとは裏腹に世界は闇に沈んでいった 。
________________________________________
――――かすかに声が聞こえる。
低く、静かな、男の声だ。
なにを言っているのかはわからない。
ただ、雨の音の中で、その声だけが妙にはっきりと耳に残った。
(……誰……?)
まぶたが重くて開けられない。
でも、温かいなにかがわたしを抱えているのがわかる。
誰かがわたしを……運んでいる……?
(……どうして、こんなこと……)
もう、なにも考えられなかった 。
________________________________________
――――目を覚ましたのは翌朝だった。
わたしが横になっていたのは、見知らぬ部屋。
粗末ではあるけれど、清潔なベッドと木製の棚、そして簡素な机が置かれている。
窓の外からは城下町の喧騒が微かに聞こえていた。
「ここはどこなの……?」
わたしはそっと身を起こした。
「……うっ」
頭がずきりと痛む。
けれど、昨日のような吐き気や倦怠感はない。
なにか熱いものを飲んだ気がする。
……薬草の匂いがまだ喉の奥に残っていた。
「……誰が……?」
そのとき、机の上に置かれていた1枚の紙に気づいた 。
紙には短く、こう書かれていた 。
『今日は雨が激しくなります。外に出る際はお気をつけて。――世話人』
世話人……?
どうやらここは下宿らしい。
だが、どうやってここに来たのか、わたしはまったく覚えていない。
あの雨の中、倒れたところを誰かに助けられたらしい 。
――――誰に?
わたしの頭の中に、彼の姿がふっとよみがえった。
――――あの青年。
金髪で碧眼。
長身で冷たくも寡黙な雰囲気を漂わせていた。
どこか高貴な気配があって、でも名前も顔の細部もはっきり思い出せない。
覚えているのは彼がわたしを助けてくれたことだけ。
「思い出せないわね……」
彼の目はなぜかわたしの心に刺さるような強さを持っていた。
わたしは何度も思い出そうとしたけれど、結局最後まで、彼の名前は出てこなかった。それに気づくと少しだけ悔しかった。
「……ありがとう、助けてくれた人」
そう呟くと不思議と涙が出てきた。
こんなに誰かに助けられたことは初めてだったから 。
________________________________________
数日が過ぎた。
わたしはその青年の紹介でこの城下町の小さな下宿に住むことになった。
お金も、食事も、最低限の暮らしも、彼が払ってくれたらしい。
けれど、そのお礼を言うために探しても、彼はもうどこにもいなかった。
それがまたわたしの心を締めつけた。
「いつか必ず見つけて、お礼を言わなきゃ。借りは絶対に返さないと」
そんな思いを胸にわたしは新しい生活の第一歩を踏み出した。
ここから先は自分の力で進むしかないのだ。
だって、もう誰にも頼らない。
家族も婚約者も、守ってくれる人はいなかった。
けれど、彼がくれたこの『助け舟』だけはわたしにとってかけがえのないものだった。
彼のことを思うと、時折胸が苦しくなる。
一方的に善意をいただいた申し訳なさだけが心に残った。
けれど、その胸の痛みこそがわたしの未来の希望の証だと思った。
そう、わたしはこれから自分の人生をしっかりと掴み取るのだ。




