第4話 わたしを追放するようなら、こっちから出て行ってやります
すれ違う使用人たちはまるでわたしが存在しないかのように目を逸らす。
無理もない。
今やわたしは婚約を破棄され、社交界の笑いものとなった娘でしかないのだから。
部屋に戻るとドアを閉め、重く鍵をかけた。
窓辺に腰を下ろし、薄く曇った空を見上げる。
「……はぁ」
自然とため息が漏れた。
ほんの数週間前まではわたしはこの家の嫡娘として、未来を信じていた。
レオナルドさまとの婚約は政略とはいえ、彼は誠実な人だと思っていた。
いずれは夫婦として、ゆっくり絆を育んでいけるのだと。
それなのに……。
舞踏会の夜、妹と密会する彼を見てしまったときのあの感覚――。
あの裏切りの瞬間が何度も何度も脳裏をよぎる。
わたしのなにがいけなかったの?
愛想がない?
笑顔がない?
男みたいに勉強ばかりしている?
でも、わたしはただ――自分にできるすべてを忠実にやって家に尽くしているだけだったのに。
どれだけ自問しても答えなど出るはずがなかった。
「……出ていこう」
小さな声でわたしは言った。
「ここにいても、わたしの未来はない。だったら、自分の道を……」
もう、誰にも指図されたくなかった。誰にも決められたくなかった。
わたしは、わたしの人生を生きる。
そう決めた。
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その日の夜――――。
わたしは自室の箪笥から旅装束にふさわしい服を選び、身の回りの必要最低限の物を小さなトランクに詰めた。
この部屋とも今日でお別れになるのかと思うと、さすがに少しだけ胸が痛んだ。
生まれた時から慣れ親しんだ家。
家の人間はわたしに対して冷たかったけれど、家自体に罪はない。
むしろ愛着すらあった。
でも、未練はなかった。
この家で感じてきた孤独と苦しみ――それらすべてを脱ぎ捨てて、わたしは前に進まなければならない。
「……母さまなら、どうしただろう」
わたしが幼い頃に亡くなった実母の面影を、ふと想った。
彼女は優しくて、聡明で、気品に満ちた女性だったと記憶している。
少なくともわたしにとっては……。
継母が屋敷に入ってからというもの、父は変わった。
いや、もしかしたら、最初からああいう人だったのかもしれない。
ただ、母がいたから、まだわたしに向けてくれる眼差しがあっただけで。
母が亡くなったとき、わたしはまだ8歳だった。
あのときの悲しみが今日の決意と重なっていく。
わたしも変わらなければ……。
過去にすがるのではなく、未来を選ぶ。
そうでなければ、生きている意味などない。
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夜が更け、屋敷が眠りにつく頃――わたしはそっと、自室の扉を開けた。
誰にも気づかれないよう、長い廊下を静かに進む。
月明かりが薄く差し込む廊下を歩きながら、心の中は妙に澄んでいた。
怖くないといえば嘘になる。
けれど、それ以上に胸に満ちていたのは、『やっと自分の人生を歩める』という確かな解放感だった。
扉を抜け、庭園を横切り、裏口の扉から外に出る。
数日前までなんの気なしに通っていた場所が、こんなにも感慨深いものだったとは。
冷たい夜風が頬を撫でた。
わたしは最後に、一度だけ屋敷を振り返った。
「……さようなら」
口の中だけで、そっと別れを告げた。
父に、母に、妹に。わたしを見下してきた家族に。
そして――――。
彼らに期待し、すがろうとしていた、愚かな過去のわたし自身にも。
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新しい人生が始まる。
どれだけ困難な道であろうとも、わたしはそれを選ぶ。自分の意志で。
もう、誰にも利用されない。誰にも、否定させない。
――――わたしがわたしとして、幸せを掴むために。
「……行こう」
静かにわたしは歩き出した。
たとえこの先、暗闇しか見えなかったとしても、わたしは後ろを振り返らない。
これはわたしが選んだ、最初の一歩だから。




