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第36話 赤子の誕生

「セレナさま、深呼吸でございますよ。もうすぐですから、どうか、落ち着いて」





 侍女頭セシリアさまの声が熱気に包まれた分娩室に響く。

 わたしの額には汗が滲み、呼吸は荒い。




(ちょっと、こんなにしんどいものなの⁉)




 激しい陣痛が波のように押し寄せ、身体の芯をねじり上げていく。




「ううっ……はい、セシリアさま……」



 絞り出すような声で応えるのが精一杯だった。

 痛みが全身を支配し、意識が遠のきそうになる。



(ダメ……なにも考えられなくなる)



「セレナ、俺がそばにいる。君は強い。必ず乗り越えられると俺は信じる」



 わたしの手を強く握りしめるユリウスさまの声が鼓膜に響く。



(不安そうな顔。わたしを案じて……)



 彼の顔は普段の冷静な表情とは違い、不安とそしてわたしへの深い愛情に満ちていた。



 その手が熱い。



 わたしの額に触れる彼の指が優しく汗を拭ってくれる。



「ユリウスさま……っ」



 その温かさにわたしは再び意識を集中させた。

 彼がそばにいてくれる。

 それだけでどれほどの勇気が湧いてくるだろう。



 そのとき、分娩室の扉が控えめにしかし、焦燥を帯びたノックとともに開かれた。



「て、殿下! じゃなくて、陛下! いかがでございますか! 王妃さまのご様子は⁉」



 ルイスさんの心なしか裏返った声が聞こえる。


 彼が分娩室に入ってこようと、顔を覗かせたのだ。


 その顔は真っ青で、見るからに緊張している。



「ルイス! お前なにをしている! まったくちょこまかと……ネズミか! おい! ここは男子禁制だぞ!」



 アルベルトさんの低く、しかし、怒りに満ちた声が続く。

 彼はルイスさんの首根っこを掴み、廊下へと引き戻そうとしているようだ。




(ネズミとネコみたい……)




「た、大変でございます! 王妃さまが、王妃さまが、もしものことがあれば、この国は、いや、俺たちは、俺たちはっ……!」



 ルイスさんはひどく狼狽している。

 顔面蒼白で、まともに言葉も出てこない。



(なんで、この人。当事者のわたしよりも落ち着きがないの……)



 王妃の出産という重大事を前に完全にテンパってしまっているようだ。



「ルイス、落ち着け! 王妃さまの御前だぞ!」



 アルベルトさんがルイスさんの口を塞ごうとする。

 しかし、ルイスさんはまるで壊れた人形のように、ガタガタと手を振り回している。



(この2人のやり取りを見ているだけで、ちょっと元気が出てきたかも……)



「お、お静まりください、アルベルト! わたくしは、わたくしは、ただ、王妃さまの御身を案じているだけでございます! あ、ああ、もしかして、あの襲撃のせいで、王妃さまのお体に異変が……!」

「お前、そういう話し方じゃないだろ!」

「ああ……そうだった。俺は俺だった――――ひっ」



 ルイスさんの言葉にユリウスさまの眉がピクリと動いた。

 彼がルイスさんを睨みつけたのだ。



「ルイス。余計なことを口にするな」



 ユリウスさまの声は氷のように冷たかった。

 彼の殺気にルイスさんは一瞬で固まった。



「ひっ……も、申し訳ございません!」



 ルイスさんはその場でピタリと動きを止め、震え上がっている。

 アルベルトさんがその隙に彼を廊下の奥へと引きずっていこうとする。



「セシリアさま! 俺たちなにか、お手伝いできることは……!」



 ルイスさんは今度はセシリアさまに話しかける。

 彼の目に切羽詰まった懇願の色が浮かんでいる。

 そこに悪意はない。



「ふむ……なにかでございますか」



 セシリアさまは冷静に、しかし、どこか楽しげな口調で答えた。

 彼女の厳しい顔の奥にわずかな笑みが浮かんでいるように見えた。



「はい! 俺、どんなことでも! 陣痛を和らげる薬草でも、お湯を沸かすことでも、あるいは、あの、ええと、力持ちだからなんでも、そ、その……」



 ルイスさんは必死にアピールしている。



「そうですね……では、ルイス。あなたにはそこで、静かに立っていていただけますか」

「ほら、ルイス。言わんこっちゃない」

「ついでにアルベルトもね」

「ええ……なんで……」



 セシリアさまはにこりともせず、そう言った。

 その声には一切の感情が込められていない。



「え、ええ……承知いたしました! 俺、ここに立って、静かに、静かに、お祈りしております!」



 ルイスさんは素直に頷き、壁際にピタリと張りついた。

 彼の顔にはどこかホッとしたような、しかし、どこか不満げな表情が浮かんでいる。



「ルイス、お前、なにを言われているかわかっているのか……」



 アルベルトさんが額に手を当てて、深くため息をついた。



「ええ、もちろん! 王妃さまの御出産を静かに見守れと、そう仰せつかったのでございます!」



 ルイスさんは得意げに胸を張った。

 アルベルトさんはその姿を見て、さらに深くため息をついた。




「みなさま、ご迷惑をおかけしました」




 アルベルトさんが深く、かなり深く腰を曲げて、謝罪の意を示した。



「もういい」



 セシリアさまが冷たく言い放った。

 彼女の目にわずかな苛立ちの色が浮かんでいる。



「アルベルト。ルイスを連れて、ここから今すぐ、出て行きなさい」



 セシリアさまの声は部屋中に響き渡った。

 その声は氷のように冷たく、一切の反論を許さない。




「ふっ。ここは医師の独壇場です。素人どもは黙って外で立っておきなさいクソガキ」




(え、カトリーヌさま、毒舌……)




 しかし、彼女の言葉によりようやく落ち着きを取り戻したルイスさんはアルベルトさんに強制連行されながら、その場を立ち去った。



「ふう……大変失礼いたしました、セレナさま。お騒がせして、申し訳ございません」



 セシリアさまはそう言って、深くため息をついた。



「いいえ。おかげで少しは気が楽になりました」



 彼女の顔にはどこか呆れたような表情が浮かんでいる。

 けれど、わたしはそのコミカルなやり取りに少し和ませてもらった。



 ________________________________________



「セレナさま、もうひと踏ん張りでございます!」



 カトリーヌ医師の声が遠くから聞こえる。

 彼女の指示に従い、わたしは最後の力を振り絞った。


 全身の筋肉が軋み、目の前が真っ白になる。





 ――――そして。





「おぎゃあ! おぎゃあ!」





 ――――まるで世界が一変したかのような瞬間だった。





 小さく、しかし力強い産声が分娩室に響き渡ったのだ。


 その声を聞いた瞬間、わたしの目からとめどなく涙が溢れ出した。



 痛みも、疲労も、すべてが吹き飛ぶ。



 ただ、この小さな命の輝きがそこに確かに存在している。



「……セレナ、よく頑張ったな」



 ユリウスさまの声が震えている。

 彼の頬には大粒の涙が流れ落ちていた。



 普段、決して感情を表に出さない彼がわたしの前でこんなにも感情を露わにしている。

 思わずわたしの胸はぎゅっと締めつけられた。



 医師が丁寧に布にくるんだ赤子をわたしの腕に抱かせてくれた。


 温かく、そして、驚くほど軽かった。


 その感触はわたしの記憶にあるどんな感覚とも異なっていた。


「お疲れ様です。セレナさま。女の子です」


 医師の言葉にわたしは、その小さな顔を見つめた。



 小さな指、小さな唇、そして、ユリウスさまによく似た金色の髪。



 愛らしい寝顔を見た瞬間、わたしはこの子がわたしたちの愛の結晶なのだと、改めて実感した。


「可愛い……なんて、可愛らしいのでしょう……」


 わたしは娘を抱きしめ、頬ずりをした。

 過去の孤独も、苦しみも、すべてがこの小さな命によって洗い流されていくようだった。



「我が娘か……」



 ユリウスさまが娘の小さな手をそっと握りしめた。


 彼の指が娘の指に触れる。


 その声は喜びと、そして、父としての深い愛情に満ちていた。

 彼の瞳にはこの小さな命への無限の愛おしさが宿っている。



 ________________________________________





 王宮内は祝福一色に包まれた。




 王子と王妃の間に第一子が誕生したという報せは瞬く間に王都中に広まり、民衆も大いに沸いた。



 王都の街では祝砲が鳴り響き、人々は喜びの声を上げていた。



「王妃さま、本当におめでとうございます!」

「可愛らしい姫君の誕生、この国にとって何よりの吉報でございます!」

「これで、この国も安泰ですな!」



 王宮の廊下を行き交う侍女や衛兵、家臣たちの顔は喜びで輝いている。

 彼らの祝福の言葉がわたしの耳に心地よく響く。



 しかし、そんな祝福ムードの中、一部の家臣からは不満を露わにする発言も飛び出したのは事実だ。



「おめでとうございます、ユリウス陛下! しかし、陛下。男の子ではないのですな……」



(まぁ……仕方がないわね。貴族たちとしては男子が生まれるかどうかは国の未来にかかわっていることだから)



 その言葉にユリウスさまの顔がみるみるうちに険しくなった。

 彼の碧い瞳がその家臣を射抜く。



「なんだと?」



 ユリウスさまの低い声に家臣は怯んだ。



「我が子が無事に生まれてきたことこそなによりの喜びだ。お前の言うことも一理あるが、それは今言うべきことではない」



 ユリウスさまが怒りに声を荒げた。

 彼の殺気に家臣は顔を真っ青にして震え上がっている。



「も、申し訳ございません。空気を読んでおりませんでした……」

「いや、俺も言いすぎた。国のことを考えての発言だったのにも関わらず、きつく言ってしまってすまない」

「い、いいえ……陛下が謝られることでは――――」

「いいや。すまないと思っている。お前は正直なところが美徳だったことを忘れていた。これからも忌憚のない意見を言ってくれ」

「は、はは!」

「た、ただ。今回みたいに本当に空気を読むべき場面では読んでくれ」

「そ、そうですな……同じことを、母と妻と妹から言われました。以後、気をつけます……」



(ああ……ユリウスさまらしい)



「みなさま。落ち着いてくださいませ」



 わたしはそう言って、ユリウスさまの腕をそっと掴んだ。

 そして、家臣に微笑みかけた。



「この子はこの国の未来です。国王陛下とわたくしの愛の結晶。まずは生まれてきてくれたことに感謝を……」



 わたしの言葉に家臣はハッと我に返ったように頭を下げた。

 ユリウスさまもまた、わたしの言葉で冷静さを取り戻したようだった。



 彼はわたしの言葉に小さく頷くと、もう一度、娘の顔を優しく見つめた。



(この子が未来か……)



 わたしは娘を抱き、その小さな頬に自分の頬を寄せた。

 わたしの目から、再び涙が溢れ出す。



 それはこの子が背負うことになるであろう未来への責任と、そして、この子を守り抜こうとする、母としての決意の涙だった。



 ユリウスさまはわたしたち家族を温かい眼差しで見守ってくれていた。

 彼はわたしの隣にそっと座り、娘の小さな手を優しく握った。



「セレナ……君に出会えて、本当によかった」



 彼の囁き声がわたしの心に深く染み渡る。

 彼の言葉はわたしへの感謝と、そして、この家族への限りない愛情に満ちていた。


「この子もきっと君のように強く、賢い女性になるだろうな」



 ユリウスさまが娘の金色の髪をそっと撫でた。



「ええ、きっと。そして、ユリウスさまのように優しく、そして誇り高い心を持った子に育ってほしいと願っております」



 わたしは娘の額にキスをした。



「この子の未来をともに創っていきましょうね、ユリウスさま」



 彼の碧い瞳がわたしをまっすぐに捉える。





「ああ。君とこの子とそしてこの国とともに最高の未来を」





 わたしたちの誓いが生まれたばかりの娘の寝顔を優しく照らした。

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