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第31話 母となる未来

 戴冠式まで、残すところ一週間を切っていた。



 新王妃としての最後の務めに追われ、1日があっという間に過ぎていく。



 あれからも度々評議会が開かれ、その度にわたしは出席していたのだが、その影響からか戴冠式まで大人しくしている貴族たちもかなり増えてきた。



 ユリウスさまも多忙な中でも常にわたしを気遣ってくださり、その優しい眼差しがわたしの心を支えてくれる。




 父との謁見も終え、過去との決別を果たした今、わたしの心はまさに晴れやかな光に満ちていたのだ。





 しかし、そんな充実した日々の中でわたしの身体に少しずつ異変が起き始めていた。



「ううっ……」



 最初の兆候は食欲の変化だった。



 朝食に提供されるはずのいつもなら美味しいと感じる香ばしいパンの匂いがある日から急に受けつけなくなった。



 胃の奥から込み上げるような吐き気がする。



「セレナ、どうした? 顔色が優れないぞ」



 ユリウスさまがわたしの様子に気づき、心配そうに尋ねてくださる。



「いえ、少し、食欲がありません……」



 そう答えるのが精一杯で、そのあとも食事が喉を通らない日が続いた。



 次には倦怠感が襲ってきた。


 朝、ベッドから起き上がるのが億劫になり、日中の公務中もなぜか眠気に襲われるようになった。



「能力低下が著しいわね……どうしましょう」



 いくら休息をとっても、身体の重さは変わらない。

 王妃としての訓練や公務の疲れだろうかと最初は思っていた。





 ある日の午前中、王妃教育中に、突然、激しい吐き気に襲われた。

 わたしは慌てて部屋の隅に駆け寄り、胃の中のものをすべて吐き出してしまった。




「セレナさま⁉」




 侍女頭のセシリアさまが驚いて駆け寄ってくる。

 その顔には心配とそして、どこか思い当たることがあるような表情が浮かんでいた。




「すぐに医師をお呼びします!」




 セシリアさまはそう言って、慌ただしく部屋を出て行った。



 わたしはぐったりとベッドに横たわっていた。



 身体は鉛のように重く、意識が朦朧とする。



 なにが起きているのか、まったく理解できなかった。

 まさか、自分が病に倒れるとは。



 これから戴冠式を控えているというのに、わたしはまたユリウスさまにご迷惑をかけてしまうのだろうか。





 ――――そんな不安が胸を締めつけた。





 数分後、老練な宮廷医師が部屋に入ってきた。


「お初にお目にかかります。セシリアの同僚のカトリーヌです」

「よ、よろしくお願いします」

「セレナさま。できるだけ早く公務に復帰できるようにと、腕の立つ医師を連れてきましたのでご安心を」



 公務に支障が出ていることを懸念しているわたしの心情を汲み取ってくださったセシリアさまの計らいで、熟練の医師を連れてきてくださった。



「はい。わたしは優秀な医師です。ご安心ください」



(やたらと自信ありげな方ね。大丈夫かしら……)



「では、セレナさま。失礼します」



 彼女はわたしの脈を測り、顔色をじっくりと診察した。

 その間、セシリアさまは心配そうにわたしの顔を見つめている。



 医師はしばらく沈黙したあと、静かに口を開いた。



「セレナさま。おめでとうございます」



 その言葉にわたしは思わず目を見開いた。



 おめでとう?



 なんのことだろう。



 わたしは病で苦しんでいるのに。



「セレナさま。ご懐妊です」



 カトリーヌ医師の言葉がわたしの耳に届いた瞬間、脳裏に雷が落ちたような衝撃が走った。



「……ご、懐妊……?」



 わたしの声は震えていた。

 頭の中が真っ白になり、なにも考えられない。



 妊娠。



 その言葉はわたしにとって、あまりにも遠い、非現実的な響きを持っていた。



 わたしはこれまでずっと、勉学一筋で生きてきた。

 王族の歴史や軍略、古典文学に没頭し、知を深めることこそがわたしの人生のすべてだった。



 恋愛や結婚には縁遠く、ましてや、子どもを産み育てるなど、想像したこともなかった。



 わたしのような者が母となるなんて。



 セシリアさまがわたしの手をそっと握りしめた。

 その目には温かい涙が浮かんでいる。


「セレナさま……本当におめでとうございます。陛下もユリウスさまも、さぞお喜びになるでしょう」


 その言葉にようやく現実感が伴ってきた。




 わたしのお腹の中に新しい命が宿っている。

 ユリウスさまの子どもが。






 その日の夕方、ユリウスさまがわたしのもとを訪れた。

 彼はわたしの顔色を見て、すぐに異変を察したようだ。



「セレナ、一体どうしたんだ? 具合が悪いのか?」



 わたしは震える手でそっと自分のお腹に触れた。

 そして、彼の目を見つめ、告げた。



「ユリウスさま……わたし……懐妊いたしました」



 わたしの言葉を聞いた瞬間、ユリウスさまの碧い瞳が大きく見開かれた。

 彼の顔に驚きと、信じられないというような表情が浮かぶ。

 そして、その目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……本当、か……?」



 彼の声は震えていた。

 彼はゆっくりとわたしのそばに跪き、わたしの手を取った。



「本当なのか、セレナ……俺の子が……」



 わたしは涙を流しながら、大きく頷いた。

 すると、ユリウスさまはわたしを強く、そして優しく抱きしめた。



 彼の腕の中でわたしは彼の心臓の鼓動が激しく高鳴っているのを感じた。



「セレナ……! ああ、セレナ……!」



 彼はわたしの名前を何度も呼び、わたしの頭を優しく撫でた。

 その声は歓喜とそして、深い愛情に満ちていた。



「家族が……増えるのだな」



 彼の言葉にわたしの目からは再び涙があふれ出した。

 それは不安の涙ではない。



 喜びと、温かさと、そして、この新しい命への限りない愛おしさに満ちた涙だった。



 ユリウスさまはわたしの顔をそっと持ち上げ、その唇に優しいキスを落とした。



「ありがとう、セレナ。最高の贈り物だ。君は、俺に、最高の幸せをくれた」



 彼の言葉にわたしは彼の胸に顔を埋めた。

 この温かい腕の中で、新しい命を育んでいける。



 その事実にわたしの心はこれまで感じたことのないほどの幸福感で満たされていく。



(わたしが……母になる)



 まだ、実感は湧かない。


 勉強一筋で生きてきたわたしがまさか子どもを産むなんて。


 それでも、わたしのお腹の中に宿った小さな命がわたしに、新しい喜びと、そして、未来への無限の可能性を示してくれている。



 ユリウスさまはわたしのことを、誰よりも信じ、愛してくださる。



 そして、この新しい命をともに喜び、育んでいこうとしてくれる。



「セレナ」



 ユリウスさまがわたしの肩をそっと抱き、静かに語りかけた。



「君と俺、そしてこの子が加われば、どんな困難も乗り越えられる。そうだろう?」



 わたしは彼の目を見上げた。

 その碧い瞳には、揺るぎない確信が宿っていた。



「はい、ユリウスさま。必ず」



 わたしは力強く頷いた。



「この子はきっと私たちに大きな祝福をもたらしてくれるでしょう」



 わたしたちは手を取り合い、互いの温もりを感じ合った。

 この先、どんな困難が待ち受けていようとも、この愛と絆があれば、必ず乗り越えていける。



「君とこの子とともに最高の未来を創ろう」



 ユリウスさまの声は未来への希望に満ちていた。

 わたしもまた、その言葉に深く頷いた。



「はい、ユリウスさま。わたくしたちの幸せをこの手で掴み取ります」



 わたしは彼の腕の中で、静かに目を閉じた。

 この奇跡の命が私たちに与えられた最大の宝物だと信じて。

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