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冬牡丹と小さな約束

作者: かがりかい


 朝の商店街は、まだ昨日の残り香を引きずっていた。コーヒーの蒸気と並んで、パン屋の焼きたての匂いが通りに広がっている。久我くが葵は店先のガラスに手をあて、曇った指先で小さな丸を描いた。指の跡が窓に花模様のように残った。


「今日も冷えるね」


 背後で声がした。振り返ると、幼なじみの瀬尾せお亮が、いつものように大きなリュックを背負っていた。


 亮は大学の帰りに、アルバイト先のパン屋へと寄るのが日課になっている。葵より三つ年上だが、自然体の笑顔は昔のままだ。


「おはよう。差し入れ持ってきた?」


 亮が差し出したのは、小さな箱。蓋を開けると、中には真っ白なクリームに冬牡丹をかたどった小さなケーキが並んでいた。葵の目が、自然と細くなる。


「あなた、これ作ったの?」


「いや、通りかかった店で。君が好きそうだと思ってさ」


 亮の言い方はいつも弱々しくて、でもどこか確信がある。葵は箱を受け取り、箱の端を親指で押した。ケーキの上にのった砂糖細工が、朝の光にきらりと光った。


「ありがとう。帰りに一つ食べていい?」


「もちろん。あとで仕事の休憩に一緒に食べよう」


 二人で交わす何気ない会話。だが葵は、そのやり取りの中に、今日は何か特別な何かがあることを察していた。


 亮が目を伏せたときの指先の震えや、言葉の端々に挟まれた遠慮。それは昔、二人が川で石を跳ねさせて遊んだ頃には無かった、微かな距離感の影だ。


 店のベルが鳴り、葵はエプロンを結ぶ。朝の忙しさに店はすぐに満ち、彼女は手を動かしながらも、どこか落ち着かない。


 昼過ぎにやっと二人になれる時間が来た。葵は奥の小さな休憩室で、亮と向かい合って座る。コーヒーの湯気が二人の間に立ち上る。


「ねえ、亮」


 葵がぽつりと言うと、亮は目を上げた。彼の視線は真っ直ぐで、優しい。


「今度の春、遠くへ行くことになったんだ」


 言葉が滑ったわけではない。亮はそう告げたくて、ずっとこの日を待っていたのだと、葵は直感した。


 胸の奥の温度がゆっくりと下がるような感覚。遠く、という言葉が風に乗って店内を通り抜けた。


「どこに?」


「海外の研究所。ビザが下りた。数か月の研修だって言われてるけど、長くなるかも」


 葵は手元の紙ナプキンをぎゅっと握った。唇の端が震える。亮は、少し笑ってみせた。


「驚いた?ごめん、急なんだ。言い出すタイミングが見つからなくて。君に先に言おうと思ってた」


「ううん、別に驚いてないよ」


— それは嘘ではない。葵は驚きを胸に押し込め、代わりに静かな声を出した。


「遠いのね」


「うん。でも、戻ってくる。ちゃんと帰ってくるって約束するよ」


 約束。亮の声に光る何かがあった。それは自信でもあり、決意でもある。葵はその言葉を心に小さく受けとめる。


 幼い頃、亮とした約束を思い出す。川沿いの桜の木の下で「大人になったら一緒に世界を見よう」と、二人で誓ったあの瞬間。亮は覚えていただろうか。


「亮…覚えてる?」


「何を?」


「昔、桜の木の下で…」


 亮は黙って頷いた。


「覚えてるよ。君と約束した」


 その一言で、葵の胸の奥の冷たさは少し溶けた。けれど溶けた端から、もう一つの不安が顔を出す。戻ってくる、と言われても、変わってしまう人がいるのではないか。


 遠い場所で見聞きすることが、二人の距離を変えるのではないか。


「私、待てるかな」


 葵の声は弱かった。でも亮は、手を伸ばして、そっと彼女の指先を包んだ。彼の手は温かく、確かな。言葉は続く。


「待っててほしい。君がいる場所が、僕の帰る先なんだ。遠くからでも、君のことを見ていたい。写真でも手紙でも、どんな形でもいい。君がいいなら、毎日ここに帰ってくるって決める」


 亮の目は真剣だった。彼の瞳には帰る場所を思う灯があった。それは、葵が望む形だった。言葉だけでなく、行動が伴っている約束。


「わかった。待つ。亮が帰ってくるなら、ここにいていい?」


「うん。約束だよ」


 二人の間に、柔らかい沈黙が流れる。休憩室の時計が一回、二回、針を進める。葵は小さく笑い、箱の蓋を開けて一つのケーキを取った。クリームの上にのった冬牡丹が、二人の手元で白く輝く。


「じゃあ、これからは離れてても、同じケーキを食べよう。写真を送るたびに、一つずつ食べるんだ」


 亮はカードを取り出して、小さな紙に今日の日付と「約束」とだけ書き、葵の手にそっと渡した。紙はシンプルで、でも彼らには重みがあった。


 日々は流れて、亮は旅立った。空港で目を合わせた瞬間、葵の目が熱くなった。亮は振り返り、手を高く振った。飛行機が空へ吸い込まれ、葵は背中に残る余韻を胸にしまった。


 季節が巡り、手紙や写真が届くたびに、葵は小さな冬牡丹を一つずつケーキ皿に並べた。亮の手紙には、見たことのない街角の空、朝焼けに染まる研究所の窓、夜に見た北の光。そのどれもが、亮の声で語られているように感じられた。


 一年が経った頃、亮からの便りは「帰る」という一言になった。葵はその文字を何度も読み返し、胸が破れそうになるほどの幸福を噛みしめた。


 空港で再会したとき、亮の顔は少し日焼けしていたが、その目はあの日のままだった。彼は葵を見て、笑った。


「ただいま」


「おかえり」


 言葉は短く、でも十分だった。二人は同じパン屋の店先で、冬牡丹のケーキを分け合った。寒い風が吹いても、二人の間は温かかった。


 世界は広い。遠くへ行くことは怖い。けれど、帰る場所がある人は強いのだと、葵は思った。


 窓に消えかけの曇りを描いたのは、今度は亮の指先だった。彼は葵の手を取り、また一つ、新しい約束を結んだ。



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