【第191話】箱庭 湿地帯 その1
…。
(蒸し暑い ・・・)
暗い映像が徐々にぼやけた映像に切り替わっていく。海水の中にいる感覚はもう既に無くなっていた。
…。
パインの瞼が開く。
女の子のような華奢な手に握られた1本の枝が目に映る。手は泥だか炭だかで所々黒くなっている。
(ここは ・・・)
あの時の農園だろうか、自分とその連れが彼の全てを奪った場所。
…。
瞼が閉じ再び暗い景色がやってくる。
(なんだ ・・・ この感情は ・・・)
うまく表現しきれない、怒りとも悲しみとも違う。心臓が回転し大きな血管を無理やりに機能させなくするような…。鼓動すらなにをどうしていいかわからないかのように、本人に機嫌を伺うようにして脈を打っている。
(おそらくこれは ・・・)
彼の心…。
パインは再び彼の中にやってきていた。
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場面は再び変わる。
133と書かれた丸いボタンが点灯している。どうやらエレベーターの中のようだった。
『チン ・・・ ウィーン』
機械音が鳴り、扉が開くと幅の広い豪華な作りの廊下を千鳥足で歩く。ヒンヤリとした人工的な空気が喉についたのに気が付いた。
「ニストンさん お待ちしておりました 中へお入り下さい」
真ん丸い大きな目をした女性が丸型のカウンターの中からそう言ってきた。茶色の髪は横長の楕円型に綺麗にセットされている。青と白とオレンジの制服は汚れ1つ付いていない。まるでアニメの中からでてきたような若い女性だった。
彼はそれを無視しその廊下をコツコツと進んでいった。
『 ・・・ 』
『個体識別番号 ・・・ 012394525 ・・・ ニストン』
『お待ちしておりました ご自由にお使いください』
暗い廊下の天井に付けられている小型のカメラ、その赤い小さな光がこちらに向け機械の音声を投げてきていた。
「 ・・・ 」
彼はそれも無視し、ただそこを歩いて行く。
「はぁ ・・・ はぁ ・・・」
彼は疲れているようだった。口から吐く息は心細く、今にも倒れてしまいそう。
『ガチャ』
(うぉ ・・・ まぶしっ)
ドアを開けるとただっぴろい部屋に辿り着く。廊下が薄暗かったこともあり、この部屋に差す日の光りが痛いほど眩しかった。
(なんだここは ・・・)
その部屋には既に誰かが住んでいたのかもしれない、豪華なソファやら白を基調とした家具やらが綺麗な状態のまま置かれている。そして、それに似合わないように無造作に積み上げられている段ボールが違和感を作り上げていた。
「はぁっ ・・・ あっ!」
ニストンは部屋の様子などお構いなしに積み上げられた段ボールに足を走らせ、それを両手で抱き着くように抱え、封を開けていった。
「あっ あっ ・・・ ああああ!!!!!」」
広い空間で彼の悲鳴が反響する。
そこでパインは気が付いた。
ニストンの体は何事も無かったように綺麗になっており、彼は今きちんとしたスーツのような物を着ている。
その綺麗ないで立ちとは逆に心の中は乱れるに乱れ、どう表現していいかやはりパインにはわからない。
その彼は嗚咽を漏らしながら段ボールの中身をこの綺麗な床面にぶちまけていた。彼の目にはうっすらと涙がこみあげてきていた。
…。
彼の手が止まる。探していた物があったようだが、それが段ボール箱に無い事を彼はものの数分で悟った。棒立ちのまま長い時が過ぎようとしていた。一体何を探していたのか。
パインにはそれが何なのかなんとなく分かる気がした。彼の大事にしてきた思い出。
( ・・・ )
大きなガラス窓からオレンジ色の陽の光が差し、そのまま暗い空になっていった。
「あった ・・・」
散りばめられたゴミのような資料の中に辛うじて顔を覗かせる木の枝。その枝にはまだ瑞々しい葉が数枚付いていた。
彼はその枝を手に取り、その場でうずくまったまま1夜を明かしていった。
( ・・・ )
(なぜまたニストンの ・・・)
まだ彼の心の中に居ることは確か、だがこれはどういう事だ?自分はあのタコにやられてしまったように思えた。もしそうだとしたらこんな映像一々見せる意味なんかない。とっととなんだかよく分かってないが、タコがやりたいことに自分を利用するはず。あれだけせっかちなのは面と向かって戦う、いや逃げただけか、そのことでよく分かった。
タコにとってニストンはうまく憑依できた人のような物と思う。わざわざそれを自分に過去の宿主の姿を見せる必要なんてないはず。前はクルートが連れてきてくれた、だが今回はそうではない気がする。クルートが自分に接触を図ろうとした気配は感じられなかった。
(あっ ・・・)
ニストンは立ち上がり、鏡に彼の姿を映した。その時一瞬だが彼と目が合ったきがした。
(そうか ・・・)
少しだけ彼は自分に笑みを見せつけてきていた。
(わかったよ 付き合う)
あの気持ち悪い口調になった「とり」とは違い、自分はこの過去の彼に関しては、うまく言えないのだが。気が合うような気がしていた。どことなく自分を世話してくれる優しい彼に似ていると思った。
…。
彼の中で生活を共にする。実際に自分はいない事になっているのだが、自分は見せられている。そう思わずにはいられない。哀れな彼に対して何もいってやれないのは心苦しい。
彼を支える人はもうこの世にいない。タコが生き返らせると言っていた、だが今の彼はそれを信じているのだろうか?実際何もあいつは彼にしてあげていない。それをどう思っているのだろうか。
ここに来た時に握っていたあの枝だけが彼の心の拠り所なようだった。彼はその枝を一番最初に大事に水の張ったコップの中に落としていた。
段ボールの中身はほとんどそのままに、ふらふらといつもと同じラフな格好で外出しては、つまらなそうなため息を吐いてこの部屋に戻ってくる。そんな毎日が続く。
そんな中彼はソファに身を落とし、大きなTV画面を通してみる映像に次第に心を奪われていっていた。
いつの時代かわからない、自分はこんな映像みたこともない。
男女の恋愛映画やこの時の世界で行われている戦争、これはエゾマから教えてもらった「空の時代」そのものを映像として流していた。多分それのはずだ。人々は競い合うようにして魔物を狩り、その報道が流れていた。また色んな鉄でできた機体をこぞって大企業を作ってはそれを実際に使用している。まるでゲームのようなその映像に恥ずかしながら心が震えた。
自分とは逆にただただ長い時間を浪費し、その映像を見る彼の心は次第に枯れていくようだった。きちんと会話ができれば彼の状況は理解できるのに、それができるはずもない。それがさらに自分の心を苦しめた。
そして毎日交換していたあの枝を刺したコップの水は日が経つにつれその頻度は下がっていく一方だった。
…。
どれほどの時間が経過しただろうか、ニストンの整えられていた髪はボサボサになっていた。その代わりに用意された白い衣装はその恰好とは逆に神々しく大きな窓から差し込む日に照らされている。
それに袖を通す時だけ、彼の気分は少しだけ良くなっていた。
それが良い事だとは思えない、だが彼の気持ちもこうなってしまってまってからはよく分かってしまう。自分はそれを見ているだけ…。複雑だ…。
コップに張られた水は残り数mmを残して、葉には白い埃が積もってしまっていた。プラスチックの人工的な葉のようになってしまい、瑞々しさは失われてしまった。
…。
ニストンはいつの間にか用意したTVゲームで時を過ごすようになってきていた。彼は白い衣装を脱ぐのを止めそのままの恰好でそれに1人でそれに興じていた。
幸いにも、それをしている時の彼の心は穏やかで全てを忘れてしまったかのように無邪気にはしゃいでいた。
自分もそれと一緒になってああでもないこうでもないと彼の頭の中で楽しんでいた。しかし、彼にとっての平穏な時はそう長く続くはずもない。
『ガチャ』
ある日の夕方、大音量で垂れ流すゲームの音楽の中に現実味を帯びたドアの開く音が入って来てしまった。
「あら ・・・ 教祖様はゲームに真剣なようですのね ・・・」
長身で黒髪のスーツ姿の綺麗な女性がこの部屋に足を運んできていた。
「なっ ・・・ どなた!?」
ソファにあぐらをかいていたニストンはゲームのコントローラーを落とし、首だけ女性の方を向いてそう言った。
「リツコと申します 手が止まっているようですので少し力をお貸ししようと思いまして ・・・」
そう彼女が言う。
あの女だ…。
そしてもう1つパインは気が付く。この心の世界に入ってきてよく遭遇していたあの綺麗な女性にかなり似ている。
その女が威嚇するようにニストンを見下ろしていた。