"うれしい"と"楽しい" 俺の思考回路
俺は昔から、人に"楽しい"と思ってもらえることが"うれし"かった。
だから、人の付き合いに、俺は自分の"楽しい"を求めない。自分なんか別に楽しくなくていい。人が、俺と接したことで"楽しい"と思ってもらえることが"うれしい"のだ。
人との集まりでもいつもそう思ってる。俺が一つも楽しくなくても、場が楽しいのがうれしい。
そのうれしいがあれば、俺の楽しいなんてどうでもいい。
小説作品も同じことだ。
人に"楽しい"と思ってもらえることが"うれしい"。
俺が自分で描いてて"楽しい"と思うことなんて、一つも重要じゃない。
人が俺の作品を読んで"楽しい"と思ってもらえることが"うれしい"。
ならば、
「人が喜ぶことを描けばいいじゃん。流行に乗って、人に耳障りのいい文章を描けば、楽しいと思ってもらえるんだから、いいんじゃない」と思うかもしれない。
でもそこが……不思議に、譲れないところなんだな。
「俺の世界に来て。その世界の中で楽しんで。その世界の中で楽しければ、俺なんか一つも楽しくなくても、うれしいんだ」
……というが、どうも俺の思考回路らしい。
だから、俺は小説作品を描いても、
「どうかお願いですから読んでください」
という気分にならない。
俺がお前らに必要ないなら、別に俺もお前らを必要としない。
……それが、俺の思考回路らしい。
だから、頭下げてまで読んでほしいと思う作家の気分がわからない。
俺の作品は面白い。面白いだけに、そんな面白い作品を探し出せないなら、その面白さに気づけないのなら、それはお前らが損をしているだけだ。
……わりと真剣に、そんなことを思っている傲慢な作家だ。
他人に認められなくても、俺はそう思っているし、それが独りよがりなら独りよがりでもいいんだ。
そんな俺の世界が好きになってくれて、その世界が楽しいと言ってくれることが、ただうれしい。それだけでいい。
……そう思うんだけど、そんな思考回路じゃ、プロにはなれないんだろうな……ってことも思う。
でもその上で、俺の満足って、決して有名になりたいって所にはないんだよな。自分がそれで楽しくなることは、別に興味がないんだ。ただ、俺が提供するものが、楽しいと思ってもらえることが、俺にとってはうれしくて、それ以上のことは何もない。
まぁ、だけどそこに、本当に"楽しかった"と言うのなら、ちゃんと気持ちがほしい。本気で楽しかったなら、対価がほしいから、プロになりたいと言っている。こういう場所に無料公開して「こんな作品が無料で読めるなんて!」と感激されるのは、俺にとっては本意ではない。
……というが、どうも俺の思考回路らしい。
俺が望むことなんて、ほんの小さなことなんだと思う。
ただ、人の"楽しい"を得るのに、生半可な想いで向かっても得られないことは、経験則でよく分かっている。その気持ちを得るために、俺は本当に真剣だ。
俺は人の楽しいを得るために、常に全力投球をしている。これは小説作品に限らない。
だから、
自分で営業をしない作家は本気で作家という仕事に向き合ってない……的なことをいう馬鹿が、出版社にさえいるけど、俺が営業をしないから本気で作家という仕事に向き合ってないと思われるのは、本気で心外だし、そう言い切る出版社をマジで軽蔑する。
俺はただ、人が楽しいと言ってくれることがうれしくて、その部分に全力を費やしている。営業をする暇などあれば、次の"楽しい"を得るために作品作りをしている。
それを、作品に対して本気ではないと言い切る神経が分からない。(まぁつまり、そう言い切る馬鹿がいるってことだな)
「俺はいい作品を描く。だから売るのは誰か売ってくれ」
それって駄目なこと?当たり前のことだと思ってるけど。……だって、創作をする能力と、自分を売り込む能力って別の才能なのは間違いないんだから。
……それが通用しない世界になってるから、俺という人間は通用しないのだろう。でも、俺に言わせてもらえば、それが通用しない世界になっていることが、なんとも不思議だよ。だって、違う才能なんだから。
ともあれ、だ。
傲慢かもしれないが、俺はその部分で、プロを目指す誰より崇高である自信がある。
いい作品が描きたい。傑作を描きたい。でもそれは、あくまで、"楽しい"と言ってくれる人のためなんだ。楽しいと言ってくれない人間のために払う労力など、一つも持ち合わせていない。こちらから願い下げである。
そういうことに気づいたから、最近、選考に漏れても、なんも悔しくないんだろうな。
……って思うわ。
今、とあるコンテストに全力投球しているけど、ここで漏れても一つも悔しくないんだろう。
以上、独り言。自分語り。