傲慢作家の勘違い
夢追い人の中で、すでに錆付いてる夢を引きずりながらうごめいて、一生懸命虚勢を張ってる連中は、とても見苦しく見える。(←こういう奴らに限って、下には厳しい)
……さて、今の俺はそう映っているだろうか。
うぬぼれ承知で言わせてもらえれば、俺はこの作家という世界で、こんなに通用しないとは思ってなかった。
気持ちや作品が表に出てこなかっただけで、俺の執筆暦はアホのように長い。物語のポイントを押さえる能力だって、話の道筋だって的外れではないと思うし、ハッキリ言って今の自分のレベルが、店で並んでる書籍に比べても、それほど劣っているとも思えない。(もちろん一番優れているわけではない)
テレビドラマや映画、つまり他のメディアも含め、俺が脱帽する作品は決して多くはないし、彼らと対等のステージに立っても「死んでしまいたい」と思えるようなセンスの差は感じないだろうと思う。
それは、あるいは壮絶な思い違いなのかもしれない。しかし、仮にもプロになろうという人間で、これくらいの風呂敷が広げられないヤツになにができるのだろう。なんなら、ベストセラーの大作を相手に、「あの作者と俺の作家的才能は、それほどは変わらない」と豪語する用意がある。
さぁ笑え。これほどのナルシストが紡ぐ物語は、一度も対外的に評価されたためしがないのだ。コンテストに通ったことも、web小説投稿サイト等でたくさんの評価点を得られたこともない。
にもかかわらず、胸張っていえる。「俺の作品、面白いよ?」
この思い上がりがどこから来るのか。……なぜ、自己評価と他人の評価に隔たりがあるのか。
……それが今回のテーマである。
録音した自分の声って、いつも自分で聞いている自分の声とは違う声に聞こえる……とはよく言われることだ。ちなみに両耳のすぐ前に両手を立て、手の甲が前に向いてる状態にしてしゃべってみた声が、他人への聞こえ方……って話もある。
つまりそういうことなのか。自作品を見るときというのは、フィルター通さずに作品が見れる。当然面白く感じる。なんせ自分が面白いだろうと思いつつ描いたものなんだから当然だ。
ところが、他人が自分の作品を見ると、その両手のようなフィルターが入る。フィルター越しに見える世界は、自分が自作品を見るときほど澄んではいないのかもしれない。
つまり俺自身が自作品と他作品を見た場合、評価をする前から、自分びいきが始まっている。
……そういうことなのだろうか。
そう思えば、すべての作品にフィルターのかかる第三者の評価というのがもっとも正当だと考えるべきなのかもしれない。俺が敬愛するGLAYのリーダーも、自著の中で、ちょっと違うけど、似たようなことを言ったことがある。
『金儲けのために売れ筋の曲を作る? そんなに簡単に売れ筋の曲が作れるものなら、レコード会社は苦労しない。そういう考え方は、聴く人間をバカにしてる。みんなちゃんと選んでいるのだ』 <胸懐 TAKURO>
ちゃんと選ばれて、正当な評価が、世の中を動かしている。とすれば。
「え? これが書籍化されて、俺のは無理なの?」って作品は実際は面白いということになるし、自作品は面白くないということになる。
でもね。その上で、自分自身が、フィルターを無視して作品が見られないため、それが分からない。実際面白いんだもん。自作品の方が。(世界に散らばる全作品を相手にしてるわけではない)
……と、まぁ、こういうトンチキな乖離現象を経て、改めて次作の計画を立てようとすると、立ち止まらざるを得ない。
自分の基準が面白いと思われないのなら、何を基準にして面白いと思われる作品を描いたらいいのかが分からなくなるわけだ。
いくら俺が流行は追わない、浮世離れしてるといっても「面白い」と言ってもらえる作品を目指していることは間違いない。人を楽しませるために作品を描いているという意識が揺らいだことはない。
が、自分の「面白い」が、他人のフィルターを通したら俄然つまんなくなってる場合、どうしたらいいのか……。
重症である。