カンチガイに囲まれて……
てかさ。
久しぶりに投稿してみたら、勝手が違って全然分かんねーでやんの。
思えば、他の人の投稿がどこにあるかもよくわからんくなったし、なんかいろいろよくわからんくなった。
改編で華やかになったわけでもない。見やすくなったわけでもない。別に変える必要なかったんじゃないの?って思うけど、どうなんだろう。みんな使いやすくなったのかな?
そういや、評価もなくなった?それはいいことだ。
あれ、小説家になろうの運営は
「1でも悪い評価ではありません。1点を足せる評価の作品なのです」
的なことを言ってたっけ。
いや、俺思うんだけど、そういう気持ちがあるなら、〝平均点〟を記載してるのがおかしいだろ。評価平均5点の作品と3,5点の作品なら5点の方がそりゃ気持ちいいだろうし、その平均5点の評価を1点は下げるわけだから、そりゃ1点が悪い評価に思えてしまうのは道理だと思うんだが。
あんな弁解をする前に平均点なんて取っ払っときゃよかったんだと思う。
思えば『小説家になろう』とは10年の付き合いだろうか。
何の得もないので投稿もしなくなってしまったが、悪循環なのだろうとは思う。しなければしないほど、記事にも気づいてもらえなくなっていくんだから。
10年間。ただの趣味でコツコツと作品を投稿し続けてきたら、あるいはファンと言ってくれる人も増えていただろうか。ヘタに公募の新人賞に切り替えたのは間違っていただろうか。
まぁ正解なんてない。あるいは、どちらを選んでも不正解なのだろう。同じ意味のようだが、正解がないのと、どちらも不正解なのはちょっと違う。ま、なににせよ、不正解の道をひた走って、俺は今も作品数を増やし続けている。
そのまま、俺はどれだけの作品を残せるだろう。
自分は面白いと思い、他人は面白いと思わない作品を描いて描いて描き続けて、何作品完成させられるだろう。
壮大なカンチガイを並べきって死の間際、俺はどんな顔をするんだろう。
そんな自分を見たいとも思い始めてきた。百、二百、数百の作品に囲まれて、浮かべる表情はどんなだろう。自分で自分に幻滅するかもしれないし、自分で自分を尊敬できるかもしれない。
そんな作品を、山ほど描いていこうと思う。どこにも相手にされずに描くのにも疲れたら、その時は自己プロデュースする。もう作品はタダでは見せない。たとえ一部も売れなくても、値札つけて作品を売る。
そこで〝買ってくれる〟という評価でしか、自分が突き進む不正解の道の空は晴れない。
それがやはり不正解の道だとしても、では誰なら正解を知っているだろうかということになるのだからしかたがない。万に一つ。どちらにしても万に一つなら、あくまで自分の作品に対する誇りを忘れずに生きたい。
……そんな作品、そんな作品に囲まれて、俺は死にたい。
そのためには、まだ作品が少なすぎるのだ。