才能がないからやらない?
最近、ここも遠ざかってるなぁと思う。
いや、書きたいことはいっぱいあるんだ。最近自殺した漫画家のことなんて一晩中でも語る自信がある。(もちろん漫画家側擁護の方)
ウクライナのことも政治家のパーティのことも、インボイスのことも子育てについても、自分のことだっていくらでも言いたいことはある。
俺はこれまで一年間毎日更新のエッセイというのを二度やったことがあるけど、続けようと思えば三年でも五年でもやれるだろう。だけど、俺が目指してるのはエッセイストではない。
時間もったいないんだな。この時期確定申告も含めて雑用だらけ、体調も崩せば、本業もある。なにより新しい作品を描きたい。
ただ今日は、備忘録として、ちょっと書いておこうと思ったことがある。
この世の中に、才能というものは厳然として存在していると思う。
裾野から頂に至るまで、才能のあるなしは常に、多大な差となって表れる。才能のない者にとって、才能というものは残酷なものだ。
だけど、その分野に向いているかどうかというのは、実はその才能のあるなしとは別なんだな。才能があるからその分野が長く続けられるとは限らない。この話も一家言あるけど、今日はその話ではない。
才能のない人間にも色々いて、最も問題なのは、諦めがいい無才能。
才能がないことを言い訳にして、大して数も重ねないのに「自分はこうだから」と言い訳して、諦めてしまう。ひどい奴になると「自分は特別こういう条件を持っているからできないんだ」という。
いや、悪いんだけど、そう決めつけるまでに、アナタはどれほどそのことを繰り返した?
えてして数回、数か月、数百回、数年だ。馬鹿か。
俺は、人生のほとんどの時間を、二つのことに費やしてきた。
一つはともかく、もう一つは文章を書くこと、描くこと。ということは、こんなとこを読む人なら察せるんじゃないかと思う。
ずっとずっとずーーーっと書いてきた。ずっとずっとずっとずっとずっと、描き続けてきた。描かない期間もあったが、ネタをメモることをどの時期も忘れなかった。俺の人生は、常に文章と隣り合わせだった。
俺が文章に才能があるかは知らん。もはや自信など欠片も残ってはいないが、才能があろうがなかろうが、今まで書いた文字数は、プロのそれとそうそう違うまい。そして、才能があろうがなかろうが、俺の文章は今だに一円にもならない。
それでも書き続けた。できるかできないかではない。やってきたのだ。
そして、手に入れているものが、今の実力である。
それがすごいかどうかも知らんし、その実力が高いかも知らん。どうでもいい。
だけど、少なくともそれくらいやってから、できるできないの文句は言え。……ってことは言える。
究極、才能のある人間に才能のない人間はかなわないかもしれない。でも、才能がないないと言ってる奴がいままでどれほどの努力をしたかは、一度胸に手を当てて顧みるべきだ。
才能がなくたって手に入れられる段階というものがある。これは間違いない。しかし、妙に達観して諦め諦めて、結局その段階にすら達せないことをまた才能のせいにする。こんなものはもはや逆の意味での買い被りだ。
つまり。
実は、夢や目標を諦めるのは、才能のせいではない。
語弊はある。最終的にはきっとそうなのだと思うけど、少なくとも地に這いつくばって蠢いている段階では、そうではない。
実際、世の中のほとんどはその段階であり、その段階で"できない"のはつまり、簡単に自分を見限ってきた自分自身のせいなのだ。
もちろん、人生は才能を生かさなければ生きられないわけではないから、才能を言い訳にして諦めることなどは悪くもなんともないことなのだが、だいたいそういうことを言う奴に限ってめちゃめちゃネガティブにものを語るから、こういうことが言いたくなってしまう。
なお、
「才能がないのならやる意味はない」
とかいう奴がいるなら、思い上がりも甚だしい。種をまいて数か月で花が咲く品種だけが植物か?
桃栗三年柿八年。木に才能があるかは知らないが、才能のない柿の木に柿は生らないのか。その柿には価値はないのか。
……たった数度の水やりで飼育を諦めるような奴にどんな花が咲くというのだ。
別に、誰に対する説教でもない。
ただ、こういうのをテーマに物語を描くこともいつかあるだろう。
その時、役に立つかもしれんので、書き留めておく。