仮初の楽園は気まぐれな飼い主の手により存在している
仮初の楽園は、神が禁断の果実を口にした事に、まだ気づいていないからだ。
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息を奪われかけたのは、初めて人を殺してから数年経った頃の話だ。
大人と呼ぶにはまだ不相応、子供と呼ぶには成熟しきった思考の年頃で、唇から息を奪い殺しに加担した回数は数えきれないほどとなった。少女趣味のターゲットには純粋無垢を装って、若い女が好きなターゲットには大人びた姿に少しの愛嬌。
そうして奪った命の価値など知らぬまま、ただ彼のために働いた。息を奪う度にお金が振り込まれ、唇を拭う度愛を与えられる。これほど幸せな事はなく、満たされていた私の心には何故か穴が開いていた。
時折、穴の正体を確かめたくて胸に手を当てる。そこから風が吹いている気がした。まるで背中まで貫通した穴が、向かい風を通していくような感覚。例えるなら陽を避けるために被っていた麦わら帽子がが海街の風に攫われるのを防ごうと手を当てたのに、風に攫われどこかに行ってしまった時のような。そんな感覚だった。
霧が深い雨の日の事だった。
その日も彼の命令に従って大人びたドレスを見にまとった。ターゲットは同業者。彼の商売敵だ。綺麗な女の子が好きなんだ。だから君にお願いしたい。ベッドの中で頭を撫でられながら告げられた命令に、何の疑いもなく頷いた。私にとって彼は世界の全てであったから。
ピアスを落として拾い、男性の目に映るようわざと太ももを見せた。すると何と分かりやすい事やら、男性はこちらに声をかけてきた。パーティー会場、人が大勢いる中で私を見つけたのなら、もう八割方任務は完了したようなものである。
散々学ばされた知識を持て余すように披露しながらも、少し抜けた女を演じる。詳しいね。男性が感心するたびに、否定の言葉を入れて謙遜する。そうやっていい気にさせて、おだてて気分をよくさせて、お酒を飲ませて酔わせて、正気を失った頃には必ずと言っていいほど腕を掴まれてホテルの一室に連れて行かれる。
毎回思うがどうして狙われる人はホテルの一室をわざわざ用意しているのだろう。こんなものを用意しているから、殺される羽目になるというのに。
もっと慎重になるべきだ。人なんて信じるに値しない生き物である。いつどこで、誰が自分の命を狙っているかなんて分からないし、恨みを買うような真似をしているのなら尚更、どんな相手でも気を付けるべきだ。
私を、ただの女だと勘違いするような思考回路を持ち合わせているから、彼は殺すように命じたんだろうな。
押し倒して上に乗って、わざとらしく微笑んだ。彼に教えられた言葉と、彼にしこまれた行動で男を手玉に取るのは慣れてしまった。今思うけれど、彼は随分と悪い大人だ。悪い大人にしか縋れなかった私も悪い子供だし、そもそも彼は私をこうする気はなかった。
自分の隣で笑っている、何も知らないただの女であって欲しかったと、ある夜に呟かれたのを忘れてはいない。
でもさ、彼の手を取ったような女なんだよ私。そりゃあ自分が使えるって分かったら何でもするよ。何も知らない、しなくていいから笑っていてくれと言われても、いつ捨てられるか分かったものじゃないんだから、自分の立場を手に入れるために狡猾になるしかなかったんだよ。
なんて、言えた例もないけれど。
熱を奪って求めあって、散々楽しんだ後に微睡の中でキスをした。男性はもがいて死に至る。いつか、私のキスに耐えうる人間が現れるのだろうか。いや、現れないだろうな、だからここにいられるんだし。そんなどうでもいい事を死体を眺めながら思った。
すると次の瞬間、大きな物音がした。
シーツを見にまとった私は護身用の銃を手に持つ。寝室の扉に照準を合わせ開いた瞬間に撃ってやろうと思った。
扉が乱暴に開かれた時、現れたスーツ姿の男性は先程パーティー会場で見かけたボディーガードだった。全く、厄介なものだ。こちらを見た瞬間、引き金を引こうとした。正にその時だ。
銃声に、目の前の男性の額から血が飛び散り身体が前に倒れ込んだのは。
一瞬の出来事で呆気にとられた私だが、警戒する手は緩めず人差し指はまだ引き金に添えられていた。数十秒後、倒れた男性を蹴り飛ばすように入って来た男性は、私を見て目を大きく見開いた。
と言っても、片目だけだが。
「お前がオンディーヌか」
左目に黒い眼帯をした男性は私の名前を呼んだ。髪は黒く短い。瞳はアンバー、黄金色だった。高い鼻に薄い唇、眼帯の下に伸びる傷さえなければ男前であっただろうその人は、年齢的にそう変わらないのではないかと推測する。
さて、この人は敵か味方か。
銃を下ろさず警戒したまま男性を見据える。見にまとっていたシーツが身体から離れた時、男性はまた大きく目を見開き、一つ、深い溜息を吐いた。構えていた銃をホルスターに戻し、来ていた黒のジャケットを脱ぐ。
そして、乱暴にこちらに投げた。
「は?」
視界が遮られ、まずいと思い引き金を引こうとした。しかし人差し指が動くその瞬間に耳に届いた声で、私の手はベッドの上に降ろされる事となる。
「オーギュストから、回収して来いって言われたんだが」
その人は、彼の名を呼んだ。久々に彼の、私の飼い主の名前を省略せず呼ぶ人にあった気がする。オーギュスト。彼は次のマフィアのボスの座を狙うような立場だから、簡単に名前呼びを許すような人ではないし、部下のほとんどは彼をイニシャルで呼んでいる。私は何故か、ダーリンと呼ばされているが。
「味方って事?」
ジャケットは膝を隠すも依然として私は裸のまま男性と向き合っていた。男性は、そうだと言うが信用出来るかと言われれば何とも言えない。しかし後ろから現れた人たちが普段見かける死体の回収に当たる人たちで、これは本当なのかもしれないと思い始める。
ベッドに降ろした手はまだ、銃を握ったままであるが。
「オンディーヌがどうせまた男とやってから殺すから、その前に殺させろだと。もう手遅れだったみたいだがな」
顎でゴミ箱を差した男性は眉間に皺を寄せた。ああ、なるほど。そこには無駄になった欲の塊が捨てられている。
「次期ご当主様は、妖精を自分のものにしときたいんだと」
厄介な奴に飼われてるな。吐き捨てるように言い切った男性に、彼のそれは愛でも何でもないただの所有権を示したいだけの執着だという事を知っているので、私は大人しく首輪を繋がれたままワンと鳴いとけばいいのだが、それだけでは満たされないからこうしているのだ。
「早く着ろ」
こちらも見ずに乱暴に吐き捨てられた言葉に、私は首を傾げる。着ろとは、このジャケットをだろうか。仕方なく腕を通し前を閉める。太ももまで覆い隠したジャケットに、着たけどと返す。男性はようやくこちらを向いた。
「撤収だ。準備しろ」
「で、貴方誰なの?あの人から聞いてない」
「……ハンス」
「本名?」
「な訳ないだろ」
ハンス。私と同じ、嘘の名前を放った男性にふむと腕を組んだ。ハンス。彼との最後の会話を思い出す。何か、そんな事言ってた気がする。同じように拾って、自分の手足となるように育てた少年がいると。微睡の中で聞いた話なので、合っているかは分からないが、多分その人だと思った。
「ハンス」
「……」
「私これから貴方と組むの?」
「組むんじゃなくて上官」
「上官?私の上官はオーギュスト、ダーリンだけだよ」
「そのダーリンから、いつまでも自分が直接指示するのは難しいから間に入ってくれって言われてんだよ」
「つまり私の上司でありダーリンの部下」
「そういう事だ」
ああ、本当にそんな事言ってたっけな。覚えがないな。多分聞いたふりして流したのだろう。私は脱ぎ捨てたドレスを見にまとう。元通りになった所でハンスにジャケットを返したが何故か受け取らなかった。
「ねぇ」
「外、寒いぞ」
「はぁ?」
「行くぞ」
言い捨てて部屋から出ていったハンスの背中を追いかける。勿論、口紅は忘れずに懐に忍ばせて。
外に出ると本当に寒くて、ここに来る前より冷え込んだ事に気づく。ハンスは目の前に止まった黒塗りの車に滑り込むように乗り込んだ。私も同じように後部座席に滑り込みドアを閉める。何食わぬ顔でホテルを後にしながら、隣に座ったハンスの横顔を盗み見た。
変な人だ。寒いからジャケットを貸すとか、裸だから服を着ろとか、変な人だ。とても同業者とは思えない。けれど先程の頭をぶち抜いた死体を見る限り、銃の腕は相当なものだろう。でも、とても同じとは思えない。
自分にはない物を、この人は持っている気がした。
「ハンス」
「……」
「ハンスってハンス・クリスチャン・アンデルセンから取ったの?人魚姫素敵な話だけど馬鹿女だよね
」
「違う」
「じゃあ何だろう、グリム童話かな。そういう名前、合った気がする」
「違う」
「自分でつけたの?」
「違う」
「じゃあダーリンが適当に付けた口だ」
ハンスは口を一文字に結んでいた。眉間に皺を寄せいかにも面倒そうな顔つきである。左目は隠れているから表情は分からない。けれど、確実に私の事を面倒だと思っているようだ。何だか少し面白かった。
だって私に対してそんな顔する人間など、これが初めてだったのだから。
「何歳?」
「二十一」
「三つ上だー」
「お前十八なのかよ」
「そうだよ、見えない?」
「世も末だな」
「それを言うなら貴方もだよ」
吐き捨てるように出された笑みに、ブーメランだと返してやると静かになった。世も末だよ、私だけじゃなく、彼も、貴方も。人殺しが当たり前の世界にいるんだから、世も末に決まっているだろう。
不思議な感覚だった。面倒なのは分かるが、完全に否定して一線引いてくるわけでもない。私が何度問いかけても、必ず返事は返って来る。変わった人だ。
彼は私に対して面倒な顔をしなかった。それは私が彼の前でいい子でワンと鳴くだけだからというのもあるけれど、感情を表に出さない人間だったから。そうじゃないと上に立てない。彼はいつも、何を考えているか分からない笑みを浮かべている。
「変な人」
「あ?」
「貴方、変な人。変わってるね」
「お前に言われたくない」
「私は置いといて、この世界にいるのに真人間に見えるから」
正気を、保っているように見えるから。人殺しが当たり前の世界では、狂ってるか壊れてしまうかの二択で人間は分かれる。私や彼は前者で、人を殺す事に何の躊躇いもなく、悲しみも罪悪感もない。だから何度だって人殺しが出来るし、いつか自分が殺される側になっても仕方ない事だと思っている。
でもこの人は壊れているわけでもない。耐えられなくなって精神がおかしくなり、いつだって死の足音に怯えるような感じでもない。
「変なのー」
「……あいつから聞いた話と違いすぎるだろ」
「ダーリンの事?」
「お前はもっと大人しくて、利口で、理性的な奴だって言ってた」
「それはダーリンの前でいい子にしてるだけだよ」
「こんなガキみたいな話し方する女だって聞いてない」
「失礼だなぁ、これもまた一つの側面だよ」
へらへら笑いながら膝の上に肘をつく。ハンスの眉間の皺がまた濃くなった。
「とりあえず、やる前に殺せ。じゃないと俺があいつに文句言われる」
「隠せばいいじゃんそんなの」
「飼い主に嘘ついていいのかよ」
「世の中には知らなくていい事も沢山あるよ」
いくら彼の命令であっても、私は多分、頷いてまた殺す前に熱を奪ってしまうのだろう。最早そういう性分である。
「いいじゃん、温もり」
「はあ?」
「三十六度前後の人間の温もり。触れないと分からない熱。重なる事で生きてるって感じるんだもん。求められているって感じる、その瞬間だけは幸せになれるの」
心に開いた所在不明の穴が、その瞬間だけは埋まるのを私は知っている。だから何度だって同じ事を繰り返す。穴を埋めるためなら温もりを求め続ける。
「お前馬鹿だろ」
そう言って悲し気な笑みを浮かべた貴方の背に、高速道路のオレンジの光が輝いていた。
それを、ずっと忘れられないままでいる。
「起きたー」
ベッドの上で大きく伸びをした。昨晩まで隣にあった温もりはない。朝から任務だと聞いていたので別に心配する事は何もないのだが、やはりいなくなると寂しいと感じるのが人間である。
懐かしい夢を見た。閉め切ったカーテンを開け午前十一時の陽射しを受け止める。休みの日は惰眠を貪るに限る。
夢の続きを頭の中で繋げていきながら寝室から出た。机の上に小さなメモ用紙が残されているのに気づく。
『冷蔵庫、飯』
簡素なメッセージだった。でもそれだけで私の心に開いた穴は満たされていく。冷蔵庫を開けるとイチジクのサラダにサンドイッチが入っていた。鼻歌交じりにそれを取り出しサンドイッチの中身を確認する。エビとアボカドである。このメニューが入っている時は、数日は帰らないから機嫌を取っておく意思が込められている。
コンロのレバーを回しお湯を沸かす。貴方がいる時は豆からコーヒーを挽くけれど、一人の時は面倒なのでインスタントだ。棚の中に仕舞っていたインスタントコーヒーの在庫が少なくなっているのに気づき買い出ししなければと思うも、いつまた仕事に行くか分からないのでタイミングを逃し続けている。
コーヒーを淹れ、サラダとサンドイッチをテーブルに置いた。向かいに貴方はいない。一人ぼっちの優雅なイブニング。少しの寂しさも、サンドイッチのスパイスになるだろう。
今日の予定を考えながら、頭の隅にいつの間にか放っていた貴方との夢の続きを思い出す。
あれから何度も一緒に仕事をこなすうちに、殺し屋なのに何故か真っ当に生きようとする不器用な姿が面白くて、綺麗で惹かれたのだ。
ハンスは私と同じように拾ってきた子供だと、後日彼が教えてくれた。他のマフィアに家族を奪われ左目を傷つけられたらしい。絶望の淵にいた所をたまたま彼が見つけ、拾った。このたまたまは決して偶然の類ではない事も分かっている。彼はいつだって、駒を欲している。
私と違い男だったハンスは新しい名前を付けられ一人前の殺し屋として様々な仕事をやらせたらしい。血生臭い事も、非人道的行為も、どんな事をしてもハンスの心は折れなかった。忠実で真っ当。自分のやっている事が間違いだと理解していながらも、全てを受け止めている。
面白い奴だと思ったようだ。
だから私の上司にして、一緒に仕事をする事で基盤を固めると共に私の手綱を握らせたかったらしいが、今ではお互いずぶずぶの関係になってしまった。
この関係性を彼は知っている上で私と貴方にこの家を与え自由にさせている。これは仮初の楽園だという事は、お互い十二分に理解している。彼の気が変われば私たちは引き離され、二度と会う事は出来ないだろう。彼に拾われた私たちの一番は、自分でもお互いでもなく、彼からの命令なのだから。
なるべく仮初の楽園が続くように、機嫌を取って、時に正直に。ちゃんと仕事をして少しの我儘を口にし続けて早数年。明日この家に帰れなくなる日が来るのを、私は恐れている。
何でもすると言った。何でも出来ると思った。何もいらないと信じていた。けれど今の私は、貴方を奪われた日に命を絶つだろう。まともに付き合ってるなんて言えないくせに、愛しているだなんて嘘でも口から出ないくせに、唇で声を潰し平凡な幸せを夢見た私たちを殺していくしか出来ない。
この楽園が長続きしますように。
禁断の果実を食べた事を、生涯神に気づかれないように。
なんて、もうすぐ傍に迫っている終わりに気づかない振りをした。