食理の茶会
それから三日――天に月が輝く夜に良人は、帝王種が暮らす街を一望できる木の中に身を潜めていた。
『なぁ、相棒。こっちよりあの御馳走の方を喰おうぜ?』
「…………」
未練を断ち切れない様子オークの言葉に、良人は憮然とした表情でただただ沈黙を貫く。
先日であった帝王種の少女――『フィナーリア」は、オークと良人にとって極上の食料となる存在だった。
だが、帝王種を捕食する天敵でありながら、良人はフィナーリアを食べることを拒んでいた。
それは、フィナーリアが亡くしたばかりの妹――「美亜」に瓜二つであったこと、そして先日自分が喰らった帝王種「グウラ」の実妹であったことに起因していることは明らかだった。
『ま、メインディッシュは後ってことでいいか』
沈黙を貫くその様子を一瞥したオークは、腹の虫の音を聞いて、今は自分の空腹を満たすことを決める。
「ああ」
オークの言葉を聞き、何とかやり過ごすことができたのを見て取った良人は、安堵の息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
その身をオークと一体化させ、鬼人のごとき姿へと変貌を遂げた良人は、地を蹴って帝王種達が暮らす街へと向かっていく。
《でも、あなたはあなたで私達を食べなければ生きていけないのですから。
あなたは生きるために兄を食べた。そして兄は生存競争に敗れた。――それは、生きとし生けるものの宿命です》
《納得するしないの問題ではありません。それが自然の輪廻というだけの事です。兄はあなたの血肉となったのです……それを悲しみはすれ、恨んだりはしませ――するべきではないと思います
私だって、こうして人里離れた場所に住んでいますが、この星の人間を食しています。良人さんは、私のことを憎むのですか?》
その最中、良人の脳裏に甦るのは、亡き妹「美亜」の生き写しの帝王種の少女の言葉。
純粋で、無垢で、捕食者すら慈しむ気高い心を持ったその言葉に責め苛まれながら、良人は襲い来る帝王種達を打ち伏せ、味わう。
《捕食者? これではまるで復讐者だな》
憎悪に任せて帝王種を殺していた自分に向けられたイシュカティールの言葉が甦り、胸に突き刺すような痛みを与えてくる。
自分と同じように家族を殺され、喰われたフィナーリアの姿。そして、これまで何度も戦った中で帝王種達は、自分達の命を守るためにこそ戦えど、良人に憎悪を向けたことはなかった。
自分達を喰らい、命を脅かす者へ対する自分とは違う高潔な志。――それが、良人の胸に棘のように突き刺さって責め苛んでいた。
(違う。――違う! 俺は間違ってない!)
しかし、そんな感情を胸に爪を立てるようにして抑え込んだ良人は、いつの間にか燻っていた怒りを懸命に燃え上がらせる。
平穏な暮らしを奪われ、家畜と成り果て、ついに妹も失った。帝王種さえいなければ、地球にやってこなければこんなことにはならなかったのだと自分に言い聞かせ、良人は己の怒りを保つ。
(こんな奴らに、俺の気持ちが分かってたまるか!)
拳を握り締め、歯を食いしばった良人は、鬼人となった己の目を爛々と燃え上がらせ、帝王種達が暮らす街へと乗り込んでいく。
先日のイシュカティール強襲の影響か、先日よりも警備が強化されているように見える街に臆することなく向かっていく良人は、自分達に気付いた帝王種にその鋭い爪を突き立てるのだった。
※※※
「……そうか。今日も現れたか」
帝王種の暮らす街。――その中心部に建つ総督府とも言うべき建造物の中で、配下の帝王種から報告を受けたイシュカティールが神妙な面持ちで独白する。
その情報で、王喰と融合したかつて地球人の少年のことを思い返したイシュカティールは、その目を細めて呟く。
「まだ離れていなかったのか」
ここ以外にも、帝王種が暮らしている街はいくつもある。一旦街を離れるという選択肢があったにも関わらず、それをしなかった良人に、イシュカティールの口から自然と憂いるような声音が零れる。
被捕食者であるイシュカティールが捕食者である王喰――良人の事を考えるなど無意味でしかないが、その声音には、捕食者となって自分へと憎悪を向ける元家畜の哀れな姿への憐憫の情が含まれているようだった。
「……」
そんなイシュカティールの姿を遠巻きに見据える大角の帝王種――「ザイオス」は、その双眸に剣呑な光をたたえて、この街を総べる女帝に背を向けた。
※※※
『うひょひょ、やっぱりたまんねぇな』
食事を終えた次の日。――オークは、森の木陰から見える景色に、涎を垂らしながらその声を歓喜で彩っていた。
そこから見えるのは、王喰であるオークにとっての絶景。
森の中に佇む小さな小屋で一人暮らしている帝王種の少女「フィナーリア」の姿だった。
その姿を見て下卑た笑みを浮かべているオークは、もちろんフィナーリアの美貌に見惚れているのではない。
存在そのものから立ち昇る最上の芳醇でかぐわしい極上の香りが、オークの王喰としての本能を刺激しているからだった。
(俺、なんでまたここに……)
オークの腹を膨らませたその足で、またフィナーリアの元を訪れてしまった良人は、亡き妹に似たその姿を見ながら歯噛みする。
王喰が極上と評する食料であるフィナーリアの命を守るならば、二度と近づかないようにするのが最上。
なにより、フィナーリアの姿と言葉は、良人の中にある帝王種への怒りを鈍らせる。
だというのに、その存在を振り払うことができない自分の未練がましさを、良人は内心で自身を嘲ることで誤魔化そうとしていた。
「……!」
その時、フィナーリアが何かに気付いたように顔を上げ、おもむろに周囲を見回す。
「いらっしゃるのでしょう? イートさん」
フィナーリアの口から紡がれたその言葉に瞠目した良人は一瞬逡巡したが、意を決して身を隠していた茂みの中からその姿を現す。
「こんにちは」
「……なんで分かった?」
自分の姿を見止め、その目を優しげに細めたフィナーリアに、良人は言葉を選びながら慎重に尋ねる。
気配を消すなどという芸当には無縁だったが、少なくとも気付かれないようにしていた。だというのに、自分がいることを感じ取ったフィナーリアに、良人はその理由を尋ねる。
「なんででしょう? ただ、今日はあなたが来ているような気がしたんです」
しかし、そんな良人の問いかけに、フィナーリアは思案気に首を傾げて曖昧な答えを返す。
その様子に作為的なものはなく、本心からの言葉であることが見て取れた。
「あなたこそ、どうしてまたここに? もしかして私を――」
先日、妹に似ていると言っていた自分の元へやって来た王喰の意図を考えたフィナーリアが、最悪の予想をよぎらせるが、良人はそれを即座に否定する。
「いや、そんなつもりはない。ただ……なんでだろうな。なんでか、勝手にここに足が向いたんだ」
「そうですか……立ち話もなんですから、よければ中へどうぞ。お茶くらいは出せますから」
首を振り、哀愁の表情を浮かべる良人に穏やかな声で応じたフィナーリアは、その身を翻して背を向ける。
その誘いに応じるべきか迷った良人だったが、やがて意を決したようにフィナーリアの後に続き、小屋の中へと入っていく。
「適当にかけてください」
良人が小屋の中に入って来たのを見て取ったフィナーリアは、ひだまりを思わせる温かな笑みを向ける。
フィナーリアがポットからお湯を注いで作った紅茶に似たお茶を差し出すと、そこから立ち昇る香りが良人の鼻腔をくすぐる。
「どうぞ。お口に合うか分かりませんが」
「……」
その言葉にカップに手を伸ばそうとした良人だったが、帝王種が何を食べているのかを思い出して思わず手が止まる。
そんな良人の動きを見ていたフィナーリアは、即座にその意味に気付いて言葉を補足の言葉を告げる。
「安心してください。これは人間から取ったものではありませんよ。私は茶葉から作ったものの方が好きなので」
もう地球人でなくなったとはいえ、共食いをすることになるのではないかという危惧を払拭された良人は、改めてそのお茶を一口口に含む。
「……うまい」
「それは良かったです」
良人の反応を見て満足気に微笑んだフィナーリアは、自分用に用意したお茶に口を付ける。
「その指輪……」
それを見ていた良人は、フィナーリアの右手薬指に光っている簡素な金色の指輪に目を止める。
帝王種には、結婚の証として左手薬指に指輪をはめるというような風習はないが、「帝王」の名の通り、その身を貴金属などで上品に飾ることが多い。
それでいうと、フィナーリアは全くと言っていいほど貴金属系の装飾を身に着けておらず、だからこそ、その白魚のような十指の中でたった一つだけ嵌められたその指輪が、否が応にも良人の目を引いた。
「これですか? これは両親の形見です。両親は別の星で王喰に食べられてしまいましたから」
「……悪い」
その指輪を見て寂し気に言うフィナーリアの言葉を聞いた良人は、反射的に謝罪の言葉を述べていた。
それは、両親を喰らった王喰としての主観からではなく、その死について踏み込んでしまったことへの道義的な理由から来たもの。
良人自身意識していたわけではないが、この瞬間に良人の意識は王喰としてではなく、地球人としてのものになっていた。
「――生きるということは、他の命を奪うことです」
王喰としてではなく、良人個人としての為人が見えるその言葉を聞いたフィナーリアは、その目を細めて澄んだ透明な声で語りかける。
その声に顔を上げた良人に、フィナーリアは窓の外に広がる森に視線を向け、そこで営まれている生命の真理を見ているような遠い目で話を続ける。
「それは私達も、あなたも、この星の人達も変わりありません。命が尊く、大切なものであることは分かっているのに、私達はそれを奪い合わなくては生きていけないんですから、難しいですね」
その言葉の意味は良人にも理解のできるものだった。
他の生き物の命をいただくから「いただきます」。他の生き物の命をいただいたから「ごちそうさま」という。――幼い頃に親や学校で言われたことだ。
それが今、「いただかれる側」となって自分の身に切実に降りかかっているとなると、複雑な気持ちになるが。
いずれにせよ、どんな生き物も他の生き物の命を喰って自分の命を繋ぎ生きている。それは、この星でも、この星の外でも変わりはないようだった。
「奪った命に報いるために自分の命を大切にするなどと綺麗な建前を述べたとしても、そんなものは勝手な言い分でしかありません。それを欺瞞だと、傲慢だと切り捨てる者もいるでしょう
他の生きたかった命のために、自分の生きていたい意志を優先して生きるなど、自分達以外の誰も望んでいません。食べられる側からすれば、食べる側にこそ命を落としてほしいものでしょうからね」
どこか自罰めいた口調で言うフィナーリアの言葉に、良人は後ろめたさと気まずさを覚え、その姿をまっすぐ見ることを恐れるように視線を逸らす。
自分が食べられる立場になって、何よりも強く思ったのは、「死ぬのは嫌だ」、「食べられるのは嫌だ」という至極単純で当たり前のことだった。
帝王種がそうしなければ生きていられないと分かっていても、自分や家族が食べられることを許すことなどできず、怒り、憎んだ――その結果が今の自分なのだろうとも分かっていたが。
「あんたは、割り切ってるのか? 自分や、自分の家族が喰われることを」
帝王種が自分の両親を喰ったように、自分は目の前にいる少女の兄を喰った。
その少女自身の口から出る他の命がなければ生きていけない命について聞かされる良人は、そんなことを言える心境を尋ねる。
「分かりません」
「他の命が自分達の種族を食べなければ生きていけないのなら、仮に自分や家族を食べられたとしても受け入れるべきなのか」――そんな意図が込められた良人の問いに、フィナーリアが出した答えはそれだった。
瞼を閉じ、唇を引き結んで紡がれたそのたった一言がいかに重いのかは、その声音が何よりも雄弁に物語っていた。
「ただ……ただ私は、他の命を大切に思って自分の命を捨てられるような人間ではないということだけです」
そしてその視線を再び良人に向けたフィナーリアは、自嘲めいた笑みを浮かべて言う。
自分が食べなければ食べられる生き物が死ぬことは無い。――だが、それでも人を、食べ物を食べずにはいられないのだとフィナーリアは言う。
「兄が亡くなっても、私は――私の心の奥と身体は、生きたいと願っています」
両親と兄を王喰に喰われ、悲しみの中にあっても、フィナーリアの身体は「腹が減った」と――「生きろ」と訴えかけてくる。
薄情とも残酷とも思える生命の反応に、自嘲とも慈しんでいるとも取れる面差しを向けたフィナーリアは、その瞳でまっすぐに良人を見つめてくる。
「イートさんはどうですか?」
自分の家族を喰った王喰に対し、その考えを問い質すフィナーリアの言葉に、良人はしばし思案を巡らせて口を開く。
「俺は……俺も多分きっとそうなんだろうな」
家族を喰われ、妹を失った帝王種への怒りはある。だが今目の前にいるフィナーリアという少女が同じ気持ちを自分に向けているのかもしれないと思うと、胸が痛くなる。
「きっと、人の数だけ答えはあって、そしてそのどれもが正解ではないんだと思います。でも、考え続けたいと思っています。
たとえそれに意味がないのだとしても、自分と、自分を生かしてくれる命と、自分が糧にした命に連なる命達に向き合っていかなくてはならないのだと思います」
そんな良人に、フィナーリアは共感するように言葉を重ねていく。
世界の根幹に存在する食物連鎖と生命の循環、その理の意味を良人もフィナーリアも、ただ推し量ることしかできない。
あるいは考えることすら意味がないのかもしれない。
それでも、ただ忘れてはならない。――自分の一つの命が、数えきれない数多の命によって支えられているという事実を。
「……」
神妙な響きを帯びたフィナーリアの声に耳を傾ける良人は、目を伏せてしばし己を振り返るように思案に耽る。
そんな良人の鼻腔をカップから漂う芳しいお茶の香りがくすぐるのだった。