第六話 山童─やまわろ─
※男たちの簡単な説明
俺=視える男。
稲荷神社の友人=社に棲んでいる。いなり寿司と日本酒を愛するテレビっこ。
山に棲むものがいる。
それが今俺の目の前で『俺の』晩飯のカップ麺を啜っている。
いきなりアパートに訪ねて来たそいつは、止める間もなくするりと部屋に入り込んだ。
俺が「あ」とか「え」とか言っているうちに部屋の奥まで侵入し、今まさに俺が食べようとしていた卓袱台の上のカップ麺に飛び付くと、許可なくずるずる啜り始めたのだ。
こいつが神出鬼没傍若無人なのは昔からなので、俺は黙って新しいカップ麺のフィルムを開けた。
「いつこっちに来たんだよ。というか、どうやってここへ?」
単身用の狭いアパート。中古の卓袱台に向かい合わせに座って、俺たちは麺をずるずる啜っている。
引っ越して間もないが、最近は段ボール箱の代わりに衣装ケースを使用しているので、部屋は意外とすっきりしている。その衣装ケースを押し入れに入れてしまえばもっと部屋がすっきりするのだが、同居人のせいでそれがままならない。
それだけならまだしも、押し入れの襖は閉まり切らずいつも十センチほど開いたままで、その隙間から陰気な同居人の青白い貌がチラチラ視えて鬱陶しい。物凄く鬱陶しい。
特に害はないが、今回の『事故物件』唯一の難点だ。
「社から歩いて来た。稲荷がそろそろ顔を出せと言ってたぞ」
成る程。
こいつにここを教えたのは稲荷神社の友人か。
「そうじゃなくて。いつ田舎から出て来たんだよ。山の家はどうした」
「もうない」
そう言ったきりまたずるずるとラーメンを啜っている。
「そうか。そうだったな」
もうない──その言葉で、俺は故郷の田舎に新しい道路が開通していたのを思い出した。
新しく開通した道路は、川沿いの古い旧道の代わりに造られた小綺麗なもので、その道路を作るために俺たちの遊び場でもあった、小さな山が一つ削られて無くなっていた。
俺が子供時代を過ごした家があった辺りもその工事区間に含まれていて、その古い家ももうなくなっているくらいだ、山に在ったこいつの樹の家など跡形もないのは当然だ。
こいつと出会ったのは、俺がまだ小学生の頃だ。
俺の生家は土間がある古い作りの平家で、土間の上は梁が剥き出しで屋根まで吹き抜けになっていた。薄暗い土間の採光の為なのか屋根に『はめ殺し』の小さな窓が設えてあり、そこから空が見えていた。
ある月の明るい夜、月の光に誘われて天井を見上げると、そのはめ殺しの窓から家の中を覗いているものと目が合った。それがこいつだったのだ。
その窓は普段から野良猫や、その他の『色々なもの』が横切るので俺は別段驚きはしなかったが、しっかり目が合ったにも拘らず平然としている俺に驚いたようだ。
後日俺に接触してきたこいつは「おれは山に棲んでいる」と言い、その後俺が一人で居る時を狙って姿を見せるようになった。一度「山のどこに住んでいるのか」と尋ねた時に「あれだ」と指したのが、山頂に近い場所にある大きなブナの木だった。
こいつは何をするでもなく散々駄菓子を強請って満足すると、そのまま山の棲家へ帰っていくのが常だった。
カップ麺のスープまで綺麗に飲み干して、満足そうな笑顔を浮かべるこいつは、あの頃とちっとも変わらない。すっかり大人になった俺とは違い、こいつは最初出会った子供の姿のままなのだ。
「相変わらず身体に悪そうな物が好きだな」
「身体に悪いものは美味いからな」
そう言ってにやりと笑った顔はとても子供のものとは思えない。
稲荷神社の友人によれば、以前街で見かけた『アメフラシ』と同じで、こいつも『そういうもの』なのだそうだ。
成る程。よく分からないが理解する必要はない。俺の周りには理解出来ないものが沢山あるので今更だ。
「それはそうと、変わったものと同居してるんだな」
「うん?」
「追い出してやろうか?」
言うが早いか、目の前の子供の身体が倍以上に膨れ上がった。短かった髪の毛がざわざわと伸びていくにつれ、部屋中に濃い緑の匂いが充満していく。
どうやら押し入れの隙間から見える陰鬱な同居人が気に触ったようだ。
緑色の怪物が歯を剥き出し威嚇しても押し入れの中は静かなままだ。
そもそも彼岸の住人の同居人に、此岸の『怪異』を知覚する意識が残っているのかどうか怪しいものだ。
同居人に実体はないが、駄菓子やカップ麺を食う目の前の怪異は違う。このまま暴れられて部屋を壊されては堪らない。
「止めろよ。そいつはそのうちいなくなるから放っておいてくれ」
「そうか? しかし辛気臭い奴だな」
そう言ってしゅるんと空気が抜けるように元の子供姿に戻った。
「幽霊だからな。それでお前は? これからどうするんだ」
「どうもこうも。おれのお山は無くなったからな、稲荷に相談してみる。どうせお前じゃ役にたたんし」
「役立たずで悪かったな。カップ麺返せ」
「もう腹の中だ。ということでそこのポテチを寄越せ」
「何が『ということ』だよ」
幼馴染も含め、俺の近くに寄って来るのはこんな奴ばかりだ。
未だに名前も知らない『怪異』は、ポテトチップスをひと袋平げ満足したのか「じゃあな」と律儀に玄関から出て行った。
「変に世馴れている癖に変わらないな」
どこからか強請りに来て満足して帰る。
ぶつぶつ文句を言いながら卓袱台の上を片付けていると何かがころりと床に落ちた。ドングリだ。
山に棲むもの、いや棲んでいたものの置き土産だった。
いきなり訪れた怪異に強請られた数日後、同居人がいなくなったのを確認した俺は、言伝通り稲荷神社へ顔を出した。同居人が健在だと (健在というのも変な話だが)俺から同居人の『穢れ』の臭いがするそうで、それを友人は大層嫌うのだ。
手土産のいなり寿司を差し出しながら、行き場を無くしたと話していた怪異が何処へ行ったのか聞いてみた。
「ああいうものたちとの関わりは『スープの冷めない距離』ってやつ? いやそれじゃあちと近いか。とにかく嫁姑の関係みたく、程々の距離感を保つのがベストだぞ。いやあ女は怖いね」
ちょうどそういうドラマだか何だかを観ていたのか、日本酒を舐めながら何とも下世話な事を言う。どうやら教える気はないようだ。
というか、そもそも俺の居場所を『山の怪異』に教えたのはこの稲荷神社の友人だ。だがこの友人に個人情報保護云々を説いても仕方がない。
彼も『そういうもの』だからだ。
「何が距離感だ。お前が言うな」
目の前で「けけけ」と嗤う友人に、俺は遠慮なくツッコんだ。
山童
やまわらわ。
山に出る妖怪。河童が山の中に入った存在であるなど諸説ある。