第十七話 謝罪の意味
物心ついた時から、倶久理には他人に視えないものが見えた。
街路に佇む薄ぼんやりとした影。部屋の片隅でうずくまる黒いもの。闇夜を漂う青い光。
それが死者の霊だということに気付いたのは七歳頃のことだ。
怖いとは思わなかった。倶久理にとって霊は居て当たり前の存在だったし、彼らに言うことを聞かせる方法もなんとなく分かっていた。
とはいえ、その人生は苦難の連続だった。制御を失った霊が周囲に迷惑をかけてしまったことは一度や二度ではないし、見えざる者と会話する彼女を恐れて距離を取る者も多くいた。
母の実家では特にそれが顕著だった。白峰家では代々霊の視える者を"狐憑き"と呼んでいて、家に不幸を呼び込む存在と見なしていたのだ。
どこへ行っても腫れ物のように扱われる日々。自然と人付き合いは希薄になり、倶久理は心を閉ざしていった。
しかし、両親だけはいつも倶久理の味方だった。
親族からのけ者にされた時も。教師から気味悪がられた時も。
両親は常に矢面に立って彼女をかばい、傷ついたその心をいたわってくれた。
「倶久理、お前は何も恥じることなんて無いんだ。倶久理はとても素晴らしい力を持ってる。他の誰にもできないことがお前にはできるんだよ」
父はそう言って倶久理を慰めてくれた。
「倶久理、あなたの力にはきっと何かの意味がある。その意味をよく考えて、本当に正しいと思ったことのために力を使いなさい。そうすればいつの日か、あなたのことを理解してくれるお友達に出逢えるはずだから」
母はそう言って倶久理を励ましてくれた。
幼い倶久理に難しいことは分からなかったが、その言葉に生きる希望をもらったことだけはよく覚えている。
それからも多くのことがあったが、両親のおかげで彼女は腐らず成長していくことができた。
両親の存在だけが、心のオアシスだった。
心許せる相手だった。
だが、その二人はもういない。
死んでしまった。
そのことを思う度に、倶久理の中を乾いた風が吹き抜けていく。冷え冷えとした風は彼女から一切の熱を奪い、心の芯まで凍り付かせてしまう。
思考がぽろぽろと抜け落ち、苦しいという感情だけが空虚に響く。その状態が昼夜を問わず、夢の中まで続くのだ。
いっそ気が狂ってしまえば楽だったのだろう。だが、運命は彼女をそうさせてはくれなかった。
大神を名乗る異形との邂逅。彼が語る唯一の希望──新たな神代。
まさに神のお導きだと思った。いや、そう思い込むことでしか自分を維持できなかったのだ。
触れることは叶わずとも、せめてもう一度会いたい。会って話がしたい。心の底から湧き出る叫びに抗うことなど、できるはずがなかった。
そうして倶久理は全てを捨てて、修羅の道に堕ちる覚悟を決めた。
(……はずだった、のに)
およそ理解不能な状況を前にして、倶久理の思考はフリーズしていた。
今、彼女の足元では明が這いつくばっている。
地面にぴたりと平伏する姿勢は古来より伝わりし謝罪スタイルの一つ。要は土下座である。
そこまでは分かる。分かるが、土下座の意味が分からない。
謝罪とは許しを乞う行為だ。しかし、そもそも明は謝らねばならないようなことを何もしていない。命乞いをするにしたって立場が逆だろう。
もしかして馬鹿にされているのだろうか。それとも何かの儀式なのだろうか。
混乱した頭でそれらしい理由を考えていると、出し抜けに明が大声をあげた。
「すまん!」
「えっ、と……?」
何の事かさっぱり分からず、微妙な顔で固まる倶久理。明は頭を下げたまま、同じ台詞を反復した。
「すまん!」
「その、二回言われましても……」
だんだん宇宙人と会話しているような気分になってきた。意思の疎通がまったくできていない。
とりあえず落ち着こう。いや落ち着くべきなのは相手か。
倶久理は軽く咳払いした後、努めて冷静に話しかけた。
「あの、明様? どうして土下座などされているのです……か?」
心持ち頭を下げて、明の顔色をうかがうように覗き込む。そんなことをしても頭頂部しか見えないのだが、気持ち的にはうかがうような感じだ。
「……俺にはこれぐらいのことしかできないからだ」
返ってきた言葉はやや湿っぽい響きを含んでいた。
「俺は、お前に何もしてやれん。お前の両親に会わせてやることも、殺されてやることも、現神の野望を放置することもな。残っているのは土下座だけだ」
「だから、すまない……と?」
「そうだ」
どこまでも大真面目な明に、倶久理はますます混乱していた。
この男はいったい何を考えているのだろう?
自分を殺そうとしてきた敵に対して、何を申し訳なく思うことがあるのか。
そんなものはこちらの勝手な都合だ。知ったことかと跳ね除けるのが普通だし、そうすることは彼の正当な権利でもある。
倶久理自身もそれは承知している。むしろ憎んでくれた方が気が楽になると、そう考えて、だから、自分は、でも、
「……どうして?」
無意識のうちに口は動いていた。
「どうして、貴方が心を痛める必要があるんですの?」
自分は加害者であり、明は被害者なのだ。
なのに、なぜ。
疑問符で頭の中をいっぱいにしながら、それでも問う。
問わなければ答えは得られないから。問えば答えてくれると、思ってしまったから。
彼女の問いに明は動かず、ただ消え入るような声で言った。
「立場が違えば俺もそうしていたからだ。……俺だって、妹に会いたいさ」
「……っ!」
倶久理は二の句が継げなくなった。
口に手を当て、よろめくように肩を揺らす。胸の奥から込み上げてくる何かを感じながら。
「そんな……」
頭をがつんと殴られたような衝撃だった。
自分はずっと敵意ばかりを一方的に募らせていたのに、あろうことか相手は自分に共感していて。それどころか罪の意識まであって。
そして今、彼女の苦しみと悲しみを理解したうえで、願いを叶えてやれないことに責任を感じている。
頓珍漢な光景だ。傍から見れば馬鹿馬鹿しい喜劇でしかないのだろう。
……だが、倶久理にとっては。
「そんなの、ずるい……!」
倶久理の頬を熱い涙が滴り落ちる。涙はとめどなく流れて、彼女の視界を覆う。
なぜ自分は泣いているのだろうか。
いくら考えても答えは出ない。
ただ、悲しくはなかった。
次話はそれほど長くないので明日中に投下できるかと思われます。




