第十三話 神代
畝傍山の膝元には多数のアリーナを擁する運動公園がある。
体育館に野球スタジアム、武道場等がひしめき合うように軒を連ね、休日になれば多くの人々がこの地に押し寄せる。加えて、国内有数の神社である橿原神宮もすぐ近くにある。
大和八木駅周辺を橿原市政の中心地とするなら、畝傍山周辺は行楽の中心地と言えるだろう。
しかし、それはあくまで日中の話。
夜の運動公園は寒々しいまでの寂寥感に支配されており、無機質に輝く夜間照明がよりいっそう空虚さを際立たせていた。
「……ここか」
明はしばしの間立ち止まり、陸上競技場の外観を観察する。
屋根付きのメインスタンドと小高い観客席に囲まれた、本格的なグラウンド。夜闇の中にそびえ立つ偉容は古代ローマのコロシアムのようだ。
「半ば勢いで来てしまったが……どうしたものか」
ためらうように自問するものの、答えはとうに決まっている。
誰が何と言おうと、明は明のするべきことをするだけだ。
自分は天才ではない。神様でもない。全てをスマートに解決する手段など、思いつくわけがない。
なればこそ、信じた道をがむしゃらに。それが明の覚悟だった。
何より、今を逃せば倶久理に勝てるチャンスは無い。
ここ……正確には"このあたり"でなければ彼女には勝てないのだ。
「よし」
心は行けと叫んでいる。思考は今が好機と囁いている。
入り口の格子扉を乗り越え、競技場内に進入。赤く柔らかいゴムチップのトラックを踏みしめ、その外周で足を止める。
トラックの内側に広がる人工芝のフィールド。その中心に倶久理はたたずんでいた。
「こんばんは。今夜は月が綺麗ですわね」
倶久理は空を仰ぎながら、踊るように体を回す。ローブのような制服が風を受けてふわりと翻った。
「私もう死んでもいいわ、などと返すつもりは無いぞ。俺にはまだやらねばならんことがある」
「わたくしも同じですわ。ですから、どちらかが消えるしかありません」
「大した覚悟だな。そうまでして家族に会いたいか?」
「……そんなの、当たり前じゃないですか」
抑えきれない感情が声を震わせる。夜の闇より昏い目は、心に空いた穴の大きさを表していた。
「わたくしはささやかな幸せを取り返そうとしているだけ。埋めることのできないマイナスをゼロに戻したいだけ。そのために代償が必要だというのなら、喜んで捧げますわ」
絶望とは、在りし日の幸福を滋養にして成長するものだ。愛深ければ深いほど、残された傷跡も大きくなる。
その目に宿る感情は、明自身にも心当たりのあるものだった。
「だから俺を殺すのか? 俺を殺せば両親が戻ってくると、大神がそう言ったのか?」
「……新たな神代」
倶久理は質問に答えず、奇妙な一言を口にした。
「新たな神代が訪れる時、人は神となり、古き時代は終わりを告げる。それが大神様の教えですわ」
「人が、神に……?」
突拍子もない展開に、明は思わず面食らってしまう。
あまりにも抽象的な表現だが、おそらくはそれこそが現神の目的なのだろう。
しかし"神"とは。
明の知っている中で神を冠する存在といえば、もう彼らしか思い浮かばない。
「遥か昔、キクリヒメという現神がいたそうです。その方は類稀なる霊能力を持ち、思いのままに死者の霊を呼び出すことができたのだとか」
倶久理は胸に手を乗せ、自身の内面を探るように目をつむる。
「そして、わたくしの力はキクリヒメ様に連なるもの。わたくしが神となった暁には彼女と同等の力を扱えるようになると、大神様はおっしゃったのです」
荒神を凌駕する絶大な力。現神を源流とする異能の力。
その力を使って、倶久理は両親の霊を呼び出そうというのだ。
果たしてそんなことが可能なのだろうか? 大神の話はどこまで信用できるものなのだろうか?
疑問は尽きないが、事の真偽を論じることに意味は無い。もはや論じたところで彼女を止めることはできないのだから。
「新たな神代こそがわたくしの希望。それを邪魔する者は、誰であれ、絶対に、許さない」
うわごとのようにつぶやき、繰り返し繰り返し自分に言い聞かせる。
「……だって、わたくしの居場所は、そこにしか存在しないのですから」
その姿は試練に耐える求道者のようでもあり、涙をこらえる子供のようでもあった。
いたたまれなくなった明はつい目を逸らし……そして、偶然それに気付いた。
横倒しになったライン引き。
倶久理の足元に打ち捨てられているそれは、少し前に一仕事終えた後のようだ。芝生の上には白い石灰がいくつもの記号を描いている。
等間隔に整列したひらがなと、中央に鎮座する鳥居。
それが示す意味に思い至った時、倶久理が艶然と唇を歪めた。
「明様は"こっくりさん"をご存知でしょうか?」
「知っているとも。世界一インスタントな降霊術だ」
緊張した表情で明は答える。
こっくりさんというのは硬貨と五十音表を利用した占いの一種だ。
術者は「こっくりさんこっくりさん、おいでください」の台詞に続いて様々な質問を投げかけ、霊的存在からお告げを受ける。
こっくりさんと呼ばれる霊の正体には諸説あるが、"こっくり"は"狐狗狸"とも言い、キツネやタヌキのような動物霊を召喚しているのではないかというのが有力な説だ。
「この競技場は畝傍山のすぐ傍にあり、夜になれば滅多に誰も来ない。山中をさ迷う動物霊と契約するのにこれほどおあつらえ向きの場所は無いな」
「それだけではありませんわ。橿原神宮は世界的にも有名な霊場の一つですから、この子たちもその恩恵を受けて……ほら」
一瞬、花火のような閃光がグラウンドに満ちた。
プラズモンの青い光はまだ見えない。
だが、確かにいる。明の異能は、あちらこちらにいくつもの強力な波動を感じ取っていた。
俊敏、獰猛、狡猾と三拍子揃った動物霊が、ざっと数えて一ダース以上。状況次第では数で来た一戦目よりつらいかもしれない。
「始めましょう。互いが求めるもののために。諦めきれない思いのために」
張り詰めた空気の中、聞こえてくるのは倶久理の冷たい声。
彼女は十円硬貨をぎゅっと握りしめた後、無造作に放り上げた。
硬貨は急な風に吹かれて不可思議な軌道を辿り、鳥居の上に着地。
それは、いわば進軍の号令でもあった。
「──こっくりさんこっくりさん、おいでくださいな!」




