第二十三話 風が止む時
そして。
全てを終えた明は、握り過ぎて強張りかけていた拳を解いた。
シナツヒコはもう動かない。肉体を内側から破壊され、羽の先から点々と血を滴らせるだけだ。
しかしその瞳は最期まで閉じることなく、憎き荒神たちを呪うように光り続けている。
地上に墜落し、あれだけの傷を負った時点でシナツヒコの運命は決まっていたのだろう。
それでも彼は絶望することなく、残り少ない命を削ってまで明たちを追い詰めようとした。
恐るべき執念。身震いするほどの精神力。
明はそこに、長き時間を生きてきた現神の意地を見たような気がした。
「それだけではないのだろうが、な」
怒りや憎しみは時として大きな力となる。痛みを消し去り、悲しみを忘れさせ、もう一度奮い立つためのきっかけを与えてくれる。
だが、それだけでここまでの力を出せるはずがない。
他にもあるのだ。二千年の時を経て様変わりした日本に放り出され、過去の迷い子となった現神の心を支えているものが。
それはきっと野望とか信念とか、願いとか呼ばれるものだ。
「あるいは──"夢"なのかもな。ニニギとやらがお前たちに見せたのは」
そうつぶやきながら、明は幻のように溶けていくシナツヒコを見つめていた。
死骸が原型を留めなくなってから、感傷を忘れるように首を振る。
現神の内心に思いを巡らせるのは後でいい。とにかく今は、目の前の課題に集中するべきだ。
「猛、体はもう大丈夫なのか? 復帰早々どでかい一発をぶち上げていたようだが」
猛は、自分の異能が作り出した大穴の縁にいた。病衣にスリッパという着の身着のままな格好だが、表情には強い生気が巡っている。
「ご心配なく。何日も眠ってたおかげで元気が有り余ってるんだよ。……って言いたいところなんだけど、このスサノオっていう力、結構スタミナ使うみたいなんだよね」
そこで苦笑し、肩をすくめる。
「一回使っただけでもうクッタクタ。病院のベッドが恋しくなってきたよ」
嫌みの無い爽やかな笑みは、憑依されていた時に見せたものとはまったくの別物。明の知る、いつもの猛だった。
見たところ後遺症は残っていないし、精神的にショックを受けた様子も無い。異能も難なく使いこなしている。
さすが猛というか何というか、エリートはあらゆる方面で適応能力が図抜けているのだな……と明は思った。
何はともあれ、これで心配事の一つに片が付いた。
残るは一つ……猛の今後について、だ。
「ふん、おめでたい奴らだ。夜渚明よ、まさかシナツヒコを倒した程度で危険が過ぎ去ったと思っているのか?」
こちらの会話が一区切りを迎えた頃、直立不動で沈黙していた黒衣の男──武内が口を開いた。
「水野猛は特殊な荒神だ。現神は今後もこやつを狙い続ける。たとえどれだけの犠牲を払おうとも、奴らは決して諦めない」
「ああ、知っているとも」
「ならば話は早い。貴様たちは、これからどうするつもりなのだ?」
灰色の瞳は一切の感情を見せることなく、無慈悲な運命を突きつける。厳格な審判者の視線が重圧を増し、明と猛にのしかかった。
そう、状況は好転していない。シナツヒコがいなくなったところで、それはあくまで第一の刺客を退けただけだ。
第二第三の刺客は、いつか必ずやってくる。
いずれ来るその時のために、自分たちは具体的な対策を立てておく必要があるのだ。
「……僕は」
考え込む猛。だが、それを差し置いて言ったのは明だった。
「は。生徒会長様ともあろうものが、そんな簡単なことも分からんとはな」
短く笑い、人差し指を武内へ向ける。
「何だと? どういうことだ夜渚明。そしてその指は何だ」
疎ましげに見返す武内。明は伸ばした指を親指に絡め、弾くように動かすと、
「猛は生徒会に入る。これが三方丸く収まる最適解だ」
「……む?」
その言葉を聞いた後、ただでさえ動きに乏しい武内の表情筋はさらに硬質化し、完全に固まってしまった。
片眉を歪めて口の端をひねったまま、身じろぎすらしない。多少の差はあれ、猛も似たような顔をしていた。
「ええっと……明、説明してほしいんだけど」
いち早く正気に戻った猛が問いかける。
明は武内の意識が復帰するのを待ってから、
「そもそも、猛をただのお荷物扱いしているから話がややこしくなる。見方を変えればこいつほど有用な存在は他にいないぞ」
「有用、だと?」
「考えてもみろ武内。こいつがいるだけで労せずして現神が寄ってくるんだぞ? お前たち生徒会にとっては最高の囮じゃないか。傍に置いておく意味は十分あるだろう」
「……貴様、それがどれだけ危険なことか分かっているのか? 過ぎた撒き餌は狩人の身をも滅ぼすのだぞ」
「だから言っただろう、猛をお荷物扱いするなと」
明は武内と対峙し、声高に主張する。
「水野猛は怯えるだけの小ウサギではない。牙持つ猟犬だ。自分の身は自分で守れるし、戦う意志も、そのための強さも持っている。だからこそ猛はここに来た。違うか?」
「何が言いたい」
「分からないか? 俺は『猛を保護してくれ』などと頼んではいない。猛を売り込んでいるんだ。こいつは、お前たち生徒会と肩を並べるに値する男だ」
戦いの運命が避けられないものならば、より有利な地形に身を置けばいい。それが明の出した結論だった。
武内の性格からして、仲間に引き入れた者をやすやすと見捨てるような真似はしないだろう。
加えて、チームとしての戦術戦略を心得ている彼らなら、明たちより効率的なやり方で猛の身柄を守ることができるはずだ。
(あとはこの頑固野郎が首を縦に振るかどうかだが……)
生徒会を納得させるためのプレゼンテーション、その最終段階に待ち受ける障害が武内だ。
かろうじて門倉とのパイプは繋がっているものの、本丸である武内を口説き落とせなければ、明の計画は水泡に帰してしまう。
だが、少なからず脈はあると明は考えていた。
なぜなら、武内は猛のことを高く評価している。
この愛想の欠片も無い男は、わざわざ前途有望な生徒だと口に出して褒めるほどに、水野猛という生徒の存在を意識していたのだ。
しかもこいつは生真面目さが形をなしたような男だ。相手が荒神だと判明した途端に言を翻すような真似は、自身のプライドが許さない。
「……………………」
武内は仁王菩薩のような形相のまま目を閉じると、何を言うでもなくあごを上に向けた。
傍目には怒りに耐えているようにしか見えないが、たぶん悩んでいるのだろう。
悩むという行動は、答えが固まっていないことの証左。明はそこにもうひと押しを加えることにした。
「そういえば、本人の意思をまだ聞いていなかったな。猛はどうしたい?」
猛はこちらの意図に気付いたらしく、しかし飾らず本心を言ってのけた。
「確かに……今のうちに生徒会の仕事に慣れておくのもいいかもね。あと数か月もすれば僕が会長になるんだし」
いたって自然に、それが決定事項であるかのように。学園きっての秀才は自分の価値を誰よりも理解していた。
自信と実績に裏打ちされたその言葉が、武内の心にどのような効果をもたらしたのかは分からない。
彼はマントを舞い踊らせて、駅前広場に背を向けた。最後に、こう言い残して。
「……当分の間、己の屋敷で寝泊まりしろ。必要なら家族も含めて」
歩幅は大きく、その姿は見る間に遠くなっていく。
大きな背中はいつしかとても小さく……皮肉にも、年相応に見えた。
今さらながら、武内が二十にも満たない少年であることを思い出す明だった。
「君には借りができたね。本当にありがとう、明」
「礼など要らん。もののついでだ。それに、お前を放っておくと黒鉄がうるさいからな」
明がそう言うと、猛は照れ臭そうな顔で、
「このありがとうは、他の色んなお礼も込みで言ってるんだよ。リョウのこともだし、それに……姉さんのことも」
「……姉、さん?」
猛は茶目っ気のある笑みを見せると、ロータリーの方に足を向けた。
荒れ果てたバス停の近くには斗貴子がいた。まだ本調子ではなさそうだが、立ち上がれるぐらいの体力は戻っているようだ。
「久しいですね、猛。意識不明の重態と聞いて心配していましたが、その様子だともう平気みたいですね」
「重態だなんて大げさだよ。ただの過労。……というか、姉さんの方が大丈夫? なんか血まみれになってるけど」
「うふ、お姉ちゃんは強いのです。猛と違ってお注射でも泣きません」
「遥か昔の話を持ち出してくるのはやめてくれないかな……」
「ちょっと待て。お前たち……まさか」
見知った風に談笑し合う二人。そして"姉さん"という呼び方。
ようやく答えに思い至った明に、斗貴子はあっけらかんとした様子で、
「ああ、そういえば明さんには言ってませんでしたね。私、母が離婚する前は"水野"の姓を名乗っていたんです」
「双子の姉だよ。二卵性だから、似てる部分はほとんど無いけどね」
猛はそう言って、黒髪に混じった一房の白髪をつまんで見せた。絹糸のような輝きは、斗貴子の髪とそっくり同じものだ。
思えば、病院で初めて会った時に気付くべきだったのかもしれない。
あのタイミング、あの早さで加勢に来ることができるのは、襲撃前から院内にいた者……それも、猛の病室付近にいた者だけだ。
父親からの連絡を聞きつけ、急いで見舞いに来たところで八十神に出くわしたというのが事の真相なのだろう。
(なら、現神の討伐に固執していたのも弟のためだったのか? いやしかし、それでは……)
その時、望美がぼそりと耳打ちをした。
「辻褄が合わない、よね」
「……そうだな」
猛が事件に巻き込まれたのは昏倒事件以降……ほんの十日前だ。
それまでは現神と関わることも異能に目覚めることもなく、ごく普通の人生を歩んでいた。
だが、斗貴子は違う。
あの実力と修羅場慣れした態度を見るに、彼女はかなり前から現神と戦い続けている。それもおそらくは、自分の意志で。
何が斗貴子を死地へと誘うのか。彼女の見据える先には何があるのか。
「……明さん? そんなに私を見つめて、どうしたんですか? 惚れちゃいましたか?」
「何でもない。パンツのことを考えていただけだ」
「あらあら、男の子。戦闘中に何だか熱ーい視線を感じたのはそのせいでしたか」
「モチベーションを維持するための緊急措置だ。許せよ」
「ちなみに明さんの好みは何色ですか?」
「黒と言いたいところだが、これ以上ふざけると望美に絶交されそうなので保留にしておこう」
「うん、でももう遅いかも」
絶対零度の視線に晒され、明は頭を抱えた。
どうやら自分はとかく誤解されやすい性質のようだ。以前からそうだったが、ここ最近は特にその傾向が際立っている。
(だがまあ、それでもいいさ。いつの日か、本当の俺が評価される時が来るはずだ)
それは自分に限った話ではない。
武内も、斗貴子も、現神も──あらゆる物事が、いずれは真の姿をつまびらかにしていくのだろう。
夜明けはまだ遠く、星々と月だけがあたりを照らしている。
明は希望と期待を胸に、朝の訪れを待ち望んでいた……。
三章終了。
例によってまとめを挟んでから四章に移行します。




