第十八話 ヤサカニ
夜の微風が運ぶのは肌を刺す冷気だ。
それは蛇のようにまとわりつき、体を撫で上げ、露出した指先から熱を吸い取っていく。
吐息で暖めようとして、口から出たそれがうっすらと白い色を宿していることに気付いた。
「寒い」
誰にともなく愚痴をこぼしてから、明は湯気が立ちのぼる様と、その背景に映る横長の建物を見上げていた。
大和八木駅。
近畿日本鉄道が運営する駅の一つであり、橿原市の玄関口とも言える交通の要所。
市街にそびえる二階建ての駅舎は周辺一帯を南北に両断しており、明たちが立っているのはその南側だ。
駅の北側は件の立体駐車場にほど近く、数日が経過した今も粉塵の除去やら何やらで立ち入りが制限されている。
もっとも駅舎を挟んでいるからか、こちら側への影響はいたって軽微だった。
「シナツヒコはまだいないようだが……本当に現れるのか?」
明は駅舎に背中を向けると、ロータリーの中央に立つ斗貴子を見た。
「ご安心を。シナツヒコの移動パターンは完全に把握しています。あの鳥さんは毎晩同じ時間に同じルートで飛行するお真面目さんなのですよ」
斗貴子の視線は南の空を目指していた。
現在時刻は午前二時を回ったところ。彼女の情報によると、あと十分足らずでシナツヒコの姿が見えてくるとのことだ。
「こんな夜更けに何をしてるんだろう……? 上空から荒神を探すにしても、もっと人の多い時間帯がいいと思うんだけど」
周囲の地形を確認していた望美がつぶやく。
「多くの人々にとって空は死角だが、何せあの巨体だ。日中から飛び回るのはさすがに不用心だと思ったんだろう」
「意外と夜のお散歩を楽しんでいるだけかもしれませんね。おかげでこちらは絶好のポイントに網を張ることができたわけですが」
駅前広場は完全な無人地帯だった。
駅舎は既にその灯を落とし、アーケードに連なる商店も軒並みシャッターを下ろしている。
あたりの土地はオフィスビルで占められているため、ある意味では住宅地以上に静かなものだ。
「人目を気にする必要も、被害を気にする必要も無い。そして何よりこの立地。……負ける理由がありません」
片足をわずかに上げて、踊るように斗貴子が回る。細めた両目は四方の"壁"を見上げていた。
北には高く屋根を張った八木駅のプラットホーム。南と東には隙間なく敷き詰められた雑居ビル。そして、南西には塔のごとく突き出た市庁舎が広場全体を見下ろしている。
まさに鉄の檻だ。これだけ多くの高層建築物が密集していれば、シナツヒコの機動力を大幅に削ぐことができるだろう。
「奴が馬鹿正直に降りてきてくれればの話だがな」
それが明の懸念事項だった。
シナツヒコのホームグラウンドは空にある。
誰の手も届かず、何も遮る物が無い自由な領域。そんな場所にいる敵が、わざわざ低空まで降りてくるものだろうか?
「その点に関しても抜かりはありません。私に策があります」
「ほう。地面にパン屑でもまく気か?」
「カラスへのエサやりは条例違反ですよ、明さん」
「シナツヒコは鷹じゃないか? ……いや、この際どっちでもいいか。それで?」
「簡単なことですよ。シナツヒコを結界の中に閉じ込めます」
斗貴子の両手が胸の前で絡み合い、少しずつその距離を縮めていく。
そして、触れ合う指が箱のような形を取った。
「具体的に言うと、ツクヨミの時間停止でこの辺一帯に逃げ場の無い空気の壁を作るんです。
あとは壁の厚みを内側に向かって増やしていけば、シナツヒコはもうここから逃げられません。術者である私を倒さない限り」
「そんなこと、本当にできるの? 物凄く大掛かりな作戦に聞こえるけど」
望美の声は半信半疑どころか八割ほど疑で染まっていた。実際、明も同じ疑問を感じていたので、首肯で彼女に同意する。
斗貴子の異能は触れた物体にのみ効果を発揮するものだ。
考えようによっては空気も地続きの物体と言えるかもしれないが、高高度を飛行するシナツヒコを捕らえるほどの結界ともなれば、膨大な体積の空気を長時間停止させなければならない。
不可能だ。現神ならともかく、荒神にできる芸当ではない。
「ええ、普通ならできませんよ。ですから、これ……ヤサカニを使います」
そう言って斗貴子が見せたものは、緑の勾玉だった。
「ヤサカニ……それが正式な呼び名なのか?」
「現神の態度や発言を総合すると、ですが」
斗貴子は二人の前を横切った後、自身もヤサカニに目を落とし、
「これは現神の核のようなものらしいです。現神にとっては心臓や脳と同じくらい重要な器官。それってつまり、どういう意味だと思います?」
「……奴らの異能に関わるもの、あるいはその副産物、か」
明が答えに至ったことを見取ると、斗貴子は笑みを深めた。
「ある時ふと思って、試してみたんです。このヤサカニを体の中に入れたらどうなるんだろう、って」
「食べたのか? あんな得体のしれないものを?」
「夜渚くんでも食べなかったのに……!?」
「どういう意味だ、おい。確かに一瞬食べてみようかと思いはしたが」
怪訝にうなる明と、口に手を当て絶句する望美。
斗貴子は何ということは無いといった風に涼しい顔だ。
「危険を冒すだけの価値はありましたよ。ごく短時間ですが、異能の出力が何倍にも増加しました。……正体は分からずとも、有効な使い道が分かれば私には十分です」
最後の一言はどこか自分に言い聞かせるような響きだったが、明がそれを問う前に言葉が重ねられた。
「あ、来たみたいですね」
南の空に小さく見えたのは、星空を黒く染める影。シナツヒコだ。
斗貴子は数歩前に出ると、ヤサカニを口の中に放り込む。
咀嚼もせずに飲み込んで、見せる微笑は酷薄に。
「では、鳥籠作戦を開始しましょうか。──どちらが真の捕食者なのか、思い知らせてやりましょう」
彼女のそれが"憎悪"と呼ばれるものだと気付いたのは、ずいぶん後になってからだった。




