第十六話 暴走する勘
「藤原署の毘比野健作だ。よろしくな、夜渚くん」
応接室に入ってきた少年に向かって、毘比野は気さくに笑いかけた。
笑顔は手錠や拳銃よりも使い慣れた商売道具の一つだ。緊張をほぐし、油断させ、物事を円滑に進めさせる。
まず相手に着席を促し、それから自身もソファに腰を下ろす。その間も視線は夜渚明に定めたままだ。
毘比野の白髪混じりの頭髪には早くも加齢の兆しが表れているが、ごつごつした相貌と瞳の輝きに衰えは見られない。無論、中身も相応だと自負している。
たとえるなら年代物のウイスキーだ。時の流れは多くのものを失わせるが、その一方で蓄積されていく味わいもある。
それは知識だったり、経験だったり、思いがけないインスピレーションだったりする。
同僚たちはその手の技能を"刑事の勘"と呼んで大層ありがたがっているらしいが、毘比野はそういった慣習を嫌っていた。
知識と経験は悪くない。しかし、最後のインスピレーション……こいつが中々の曲者である。
捜査において最も不要なものは、先入観だ。
「○○である」「○○に違いない」などという思い込みは、人の目を知らぬ間に曇らせる。
プロフェッショナルを自任するのであれば、なおさら勘や閃きなどという不確かな感覚に頼るべきではない。
論理的な思考と計算のみが、自分たちを事件の真相へと導いてくれるのだから。
刑事課に配属されてから現在に至るまで、毘比野は変わらずそう考えていた。
正確には、ついさっきまで。
(やれやれ、俺もとうとうヤキが回っちまったかな)
先ほどからずっと、頭の奥で鳴り響いているものがある。
毘比野がこれまで意識して遠ざけてきた、"刑事の勘"とかいう聞かん坊。そいつが力いっぱい警笛を吹き鳴らしているのだ。
この少年は怪しい、と。この少年は何かを隠している、と。
ナンセンスな啓示に辟易しながらも、強く否定することのできない自分がいた。
(まあ、やけに落ち着き払ってるところは気になるが……)
夜渚明の態度は凪のように平静そのものだ。
ソファに浅く腰掛けて、泰然自若にこちらの言葉を待っている。視線にもブレは無い。
だからこその疑念。
十七そこらの学生が突然刑事に呼び出されたのだ。萎縮したり、何を聞かれるのかと不安がったりするのが普通の反応だろう。
だというのに、この少年には何の変化も無い。
よほど肝が据わっているのか、それとも──
「あの、刑事さん? お話があるのでしたら、早めに済ませてほしいんですが」
長すぎる沈黙にしびれをきらしたのか、夜渚明が話を急かした。
「と、すまんすまん。ずいぶん大きくなったもんだと感慨深くなっちまってな」
「……? すみません、どこかでお会いしたことがありましたか?」
「いやいや、直接の面識はねえよ」
顔の前で手を振ると、毘比野は努めて何気なく、
「妹さんの事件、覚えてるだろ? あれの捜査に俺も関わってたんだよ」
「ああ、そういうことだったんですか」
夜渚明はそう言って、それだけだった。
怪しいという思いが、一段と膨れ上がる。
今度は勘ではない。論理的根拠に基づくものだ。
「それで、確認したいことというのは?」
「ああ、それな。事件当時のことなんだが……えーと、何だったか……」
開いた手帳を衝立のようにして顔を隠す。
白紙のページを眺めながら、暗記済みの情報をたどたどしく口にしていく。
「お前さんは午後四時過ぎに校舎を離れて、校門を出たところで意識を失った。目を覚ましてからあたりを見渡すと、学園の敷地内に大勢の生徒が倒れていた。それで間違いないか?」
「はい、間違いありません」
「ふんふん、そうかいそうかい」
片手で手帳を掲げたまま、空いた片手で膝をぽんぽんと叩く。
そこからじっくり間を空けた後、不意に手帳を閉じて顔を見せた。昏い瞳は獲物を狙う狩人のそれだ。
「そいつはちょっとおかしいなあ……」
「どういうことですか?」
「いやな? ちょうどその時間帯に学園の前を通りがかったドライバーがいたんだよ。そいつの話じゃ、校門の前に人なんて倒れてなかったんだとさ」
半分は事実だ。ドライバーは確かに「校門の周辺は無人だった」と話していた。
もっと言うと、彼は「学園全体に人気が無かった」とも話していた。
あまりにもでたらめな話であり、加えてそのドライバーが徹夜明けであったことから、捜査本部はこの証言を見間違いと断定。以後、注意を向けることは無かった。
(そんなもんを引っ張り出してきて俺は何をやってるんだろうなあ? いい加減嫌になってきたぜ)
あれほど忌避してきた直感に踊らされ、そのうえガセネタで子供にカマをかけようとしている。半月前の自分が見たら即刻辞表を出しているだろう。
内なる自嘲を抑え込み、毘比野は夜渚明の答えを待つ。あまり期待はせずに。
しょせんは馬鹿馬鹿しい思いつきから起こした行動だ。
「どういうことだか分からない」と眉をひそめられて終わりだろう、と思っていた。
だが。
「そうですね……。何とも言えませんが、もしかするとたまたま見えない位置にいたのかもしれません。俺たちが倒れていた場所は門扉の陰になっていましたから」
「……門扉の陰? つまり、まだ校門を出てなかったってことか?」
「その辺りは混乱していたので、正確なところは……すみません」
元来記憶とは曖昧なものだ。事件から日が経つにつれ、関係者の証言が変化していくことは珍しくない。
だが、このタイミングで。まるで言い繕うように。
また頭の中で警笛が鳴っている。しかもさらに大きな音で。
その音色に導かれるまま、毘比野は前ににじり寄った。
「夜渚明。お前、何を隠してる?」
「は? そう言われても、事件に関することは全てお話ししたはずですが」
「大人を舐めるんじゃねえぞ。この事件にお前が関わってることぐらい、とっくに分かってるんだよ」
ドスの利いた声を解禁し、目の前の重要参考人を追い詰める。食らいついたら離さないのが毘比野流だ。
「あの日高臣学園で何があった? お前はなんで橿原市に帰ってきた? 夜渚鳴衣はどこにいる?」
「いきなり何を……。それに、どうしてそこで妹のことが出てくるんですか」
「ついさっきお前が自白したからだよ。気付いてないのか?」
「……自白?」
疑わしげな夜渚明。だがその顔が偽りであることは分かっている。
なぜなら、この少年は"あの台詞"を言わなかった。
親しい者を誘拐された人間が、事件に携わっていた刑事と出会った際に必ず質問すること。
事件の解決を望む者なら絶対にあって然るべき一言が、夜渚明の口からは一度も出てきていない。
「後学のために教えておいてやる。こういう時、被害者の身内は『あの子の行方は分かりましたか?』って聞くものなんだよ。何年経っていようと、どれだけ期待薄だったとしても、彼らはそう聞かずにはいられないんだ。
それを聞かない、知りたがらないってことは……なあ、そうなんだろ?」
夜渚鳴衣誘拐事件は、夜渚明ただ一人の証言によって成り立っている。
犯行現場も、犯行時刻も、犯人の特徴も、捜査を進めるための何もかもが夜渚明からもたらされたものだ。
だが、もしも。それらの中に虚偽が込められていたとしたら?
"刀を持った謎の巨人"なんて週刊誌受けする犯人像は、捜査をかく乱するためのでっち上げに過ぎなかったのではないか?
もしかすると、真相はもっと単純で、真犯人はとても身近なところに──
「そこまでにしてもらおうか」
加熱する思考を中断させたのは冷たい声。
声の主は開け放たれた扉に拳を置き、こちらをにらんでいた。
灰色のスーツに身を固めた細身の青年だ。短い黒髪をオールバックにしており、色素の薄い肌は彫像のよう。
毘比野はその顔をよく知っていた。何しろ彼は、この学園の実質的な代表なのだから。
「あなたは……稲船理事長」
「これはいったいどういうことなのかね、毘比野警部補。夜渚くんに対する聞き取り調査は私の到着を待ってから開始するという約束のはずだが?」
事務的な口調に明確な喜怒哀楽は見えない。だが、とげとげしい視線には静かな怒りと敵意がこもっていた。
「申し訳ありません。夜渚くんの方が先に来ましたので、まずは差し障りの無い質問だけ……と思っていたのですが」
「君たち警察の尺度では今の尋問が"差し障りの無いもの"なのかね? 長らく犯罪者と関わっていると正常な感覚を失ってしまうようだな」
「それについては謝罪します。いつもの癖で、つい熱が入り過ぎてしまいました」
「ならば早々に出ていきたまえ。これ以上の横暴は私が許可しない」
「ですが──」
毘比野は出かかっていた言葉を飲み込み、深々と頭を下げる。
「……それでは、失礼します」
背中に無言の圧を感じながら、応接室を後にする。
しばらく廊下を進んでから、長い息と共に乱暴に頭をかいた。
「やっちまったな、こりゃあ」
生まれて初めて勘に身を任せた結果、新人でもしでかさないような大失態を演じてしまった。
慣れないことはするもんじゃないなと反省し、しかし一方で得るものはあったなという思いもある。
夜渚明。
七年前と現在、二つの事件の渦中にいる少年。
そして毘比野の推理が正しければ、彼は市内で起きている連続失踪事件とも関わりを持っている。
「足掛け数年、やっと掴んだ手がかりだ。……絶対に逃がさねえからな」
初老の刑事は拳を握り、胸の奥に闘志をみなぎらせる。進む足取りは確かなものだ。
……だが、彼は知る由も無い。
自分の常識を丸ごと覆してしまうような世界が、その先に待ち構えていることを。




