第十四話 過去に置いてきたもの
人も道路も街並みも、あらゆるものが深い眠りについた頃。
灰一色の中心街にのしかかるのは、星すら見えない漆黒の空だ。
その闇の中を、素早い動きで飛び交う影があった。
屋根から屋根へ。ビルからビルへ。速度を緩めず、跳ねるように空を舞う。
影はいくつかの通りを越えた後、近くの電柱を足掛かりに再び跳躍。今度は距離ではなく、高さを稼ぐ軌道だった。
眼前に見えるのは十二階建ての高層マンション。そそり立つ外壁をギリギリで飛び越え、屋上に着地した。
そこから先はルーチンワーク。尾行されていないことを確認し、何食わぬ顔で階段を下り、自宅のドアを開ける。
リビングには予想通りの光景が広がっていた。
「やっぱり飲んだくれてたんですね。いけないいけないお母様ー」
だらしない格好でソファに沈んでいる母親を見ると、彼女──璃月斗貴子は揶揄するように声をあげた。
テーブルの上にはスコッチの空き瓶が一つと、開けたばかりの焼酎が一つ。部屋の端で転がっているのは買い足してきた発泡酒だろうか。
節操の無いラインナップはお酒の万国博覧会のようだ。
「あらあら、これまた見事な散らかしっぷり。アルコールは問題を先送りにするだけで解決してはくれませんよ?」
「そんなこと、言われなくても分かってるわよぉ……」
年甲斐もなく拗ねたような声を出す母親。
普段は有能なキャリアウーマンとして公私共に隙の無い生活スタイルを維持している彼女だが、ひとたび酒が入ると途端に情けない姿を晒す。
本人もそのことは気にしているらしく、人前では絶対にアルコールを摂取することは無い。
家で飲むのも年に数度ほど。そして、決まって何かを忘れたい時だけだ。
「お父さんから連絡は来てるんでしょう? せっかくですし、顔を見せに行ってあげたらどうです?」
「私が行っても、何の意味も無いわよ。あの子に煙たがられるだけ」
「勝手に決めつけて自己完結するの、お母さんの悪い癖ですよ」
「うるさいわねえ……無理なものは無理なのよぉ……」
雑な動作でグラスを置くと、すんすんと鼻を鳴らし始めた。今度は泣き上戸だ。
言語化不可能な泣き言をBGMに、斗貴子はキッチンの洗い物を済ませていく。
シンクの中が綺麗に片付いた頃、リビングから聞こえてくる音は寝息に変わっていた。
「そんなに怖がらなくても、お母さんが考えてるようなことにはならないと思いますけどね」
母は完璧主義者でプライドが高くて、その癖怖がりな人だ。
かつて感じた痛みを、もう一度味わうのではないかと恐れている。だから、会いたくても会いに行けないのだ。
過去に囚われ、未来に進めず。こういうところは親子そっくりだと思う。
「ですが、お母さんの過去はまだ取り返しがつくものです。幸いですよ、それって」
斗貴子は優しい手つきで布団をかけた後、母の眠りを妨げないようリビングを後にした。
廊下に出た斗貴子は、シャワーを浴びるため風呂場へと向かう。
脱衣所で服を脱ぎながら、ふと鏡に目をやった。
「……我ながら肌荒れがすさまじいですね。可愛い顔が台無しじゃないですか」
ここ二日ばかり、斗貴子はほとんど睡眠を取っていない。病院の周りをうろつく八十神たちを徹夜で掃除し続けていたからだ。
さしものツクヨミも、術者の睡眠中には効果を発揮できない。時間加速によって睡眠時間を倍増させるような裏技は不可能なのだ。
「明さんには何か考えがあるようでしたから、こんな状況もそう長くは続かないと思うんですけど……」
一人つぶやき、力無く笑う。
鏡の向こうにいる自分もぎこちない笑顔を返し──
直後、大きくせき込む姿が見えた。
「──っ、か」
口を覆った手のひらが、赤く色付く。
血だ。
「あはは……。そういえば、さっきキメたばかりでしたね……」
疑問は無い。当然の結果だ。
覚悟していて、そうしたのだから。
「ですが、こんなことで怖気づく気はありませんよ……」
しかしそれでも、斗貴子はそうすることをやめはしない。
勝利のために。
復讐のために。
「あの日、あの子が味わった痛みは……きっとこんなものじゃなかった……!」
彼女は、彼女自身に、止まることを許さない。




