第三話 月下の邂逅
激しい気流に顔をしかめながら、明は敵の姿を見た。
視線の先には灰色の怪鳥。左右の翼で風を切り、円の軌道で天頂を漂う様はまさに天空の支配者だ。
道理で白い霧が出てこないわけだ。下手に閉鎖空間など作れば、空という広大無辺なフィールドを十全に活用することなどできないのだから。
と、その時だ。怪鳥の背中から、白い何かが転がり落ちた。
小さな点にしか見えなかったそれは近付くごとに輪郭をはっきりとさせていき、ついには人の形を取る。
「八十神……! あの鳥に運ばれてきたのか!」
まるでどこかの軍事演習さながらに、武装した八十神たちが次々と降下してくる。
十……二十……まだ増える。屋上が敵であふれかえるのも時間の問題だ。
「なら、元を断てば……!」
念動力でシャープペンを発射する望美。定めた狙いは過たず、怪鳥の下腹に迫る。
怪鳥はその場で停止し、こちらに向けて半身を翻した。鋭い瞳が射撃を捉え、冷笑の形を作る。
滞空しながら、羽ばたき一つ。四翼が風を生み出し、押し出された空気が圧となって下界に落ちた。
どれだけ速かろうと、しょせんは軽量の文具でしかない。風に巻かれたシャープペンが一瞬で勢いを殺され、きりもみしながら墜落していく。
が、それだけでは終わらない。
風はなおも力を弱めず屋上に到達。沸き上がる乱気流の渦が明たちを埃のように舞い上げた。
「く……!」
足元の感覚が消え、全身が重力のくびきから解き放たれる。
意志に反してたゆたう体。眼下の景色が屋上のタイルから柵の手すりへと移り変わっていく。
そうして間もなく地上のアスファルトが見えてくるだろう。その後はきっと何も見えなくなる。
そうなる前にと明はもがく。伸ばした右手は望美の腕を掴み、左手で手すりにしがみつく。
二つの手ごたえを得た瞬間、両手を交差させんばかりの勢いで引き寄せた。
「おお──!」
抱きすくめた腕に望美の熱を感じたまま、明の体は柵の内側に。
背中から落下し、地を打つ衝撃に頬を歪める。
しかし、痛みは生の証明でもある。開いた眼には先ほどと同じ屋上が映っていた。
「ふう、間一髪だったな」
安堵に任せてつぶやいた時、腹の上にまたがっていた望美が身をよじった。
「夜渚くん……ドサクサ紛れにお尻触らないで」
「トマトケチャップになるよりマシだろう。必要経費だと思ってくれ」
「不可抗力じゃないんだ……」
剣呑な視線から逃れるように、明は頭を横に倒し──血相を変えた。
見えたのは屋上の入り口と、そこに駆け込む八十神の群れ。どうやら屋上に降りた全員が階下を目指しているようだ。
「俺たちは二の次か。舐めた真似をしてくれる……!」
個々の強さはそれほどでもないが、なにぶん数が数だ。黒鉄一人ではいささか分が悪いだろう。
飛び起きた二人は服の乱れもそのままに八十神の後背を追う。
……だが、ほどなくして明の足は止まった。そうする意味が無くなったからだ。
「夜渚くん……? 急にどうしたの?」
怪訝に思った望美が振り返る。
眉をひそめる彼女に対し、明は憮然とした表情で、
「階段を上ってくる者がいる。おおかた"待て"のできない馬鹿犬が飛び出したんだろう」
聞こえてくる足音は決して止まらず小気味良く、それは八十神たちの心音を消し去りながら近付いてくる。
ただの人間にできる芸当ではない。間違いなく荒神、それもかなりの実力者だ。
消去法でいえば黒鉄以外にあり得ないし、彼の好戦的な気性も明の予想を後押ししていた。
だからこそ。
足音の主が屋上に出てきた時、明は我が目を疑った。
そこにいたのは黒鉄ではなかった。
少女だ。
年の頃は明と同じくらいだろうか。黒のブレザーに黒のスカート、膝上まで覆うハイソックスまで黒ずくめ。
それとは対照的に、腰まで伸びる長髪は月光を浴びて白銀に輝いている。
……誰だ?
と思うより早く、謎の少女がこちらを向いた。
微笑を浮かべてわずかに会釈。猫のような目が弓なりに曲がる。
やけに親しみ深い態度だが、明にとっては初対面だ。戸惑いながらも挨拶を返そうとするが、そこで少女が「あ」と声をあげた。
「現神、逃げていきますね」
「なにっ!?」
つられて空を見上げる明。怪鳥の姿は既に遠く、豆粒ほどに小さくなっていた。
手下がやられたからには大将自ら戦いに参加してくるのだろうと思っていたが、不利と見るなり尻尾を巻いて逃げ去ってしまうとは。
あまりにも鮮やかな引き際だ。むしろ肩透かしと言ってもいい。
これまでの執拗さとは打って変わって消極的な姿勢に、明はちぐはぐなものを感じていた。
「……いや、何にせよ勝ちは勝ちだ。素直に喜ぶとしよう」
現神の本音がどうあれ、ひとまず猛の安全は守られた。
明は意識の緊張を解くと、白髪の少女に向き直る。明が見た時、彼女はまだ入り口の前から動いていなかった。
間違いなく、そのはずだった。
「な──!?」
それは何気ない動きだった。
少女がこちらに一歩を進み……刹那と経たず、明の眼前に立っていた。
速い、などというレベルではない。視覚が追い付かぬほどの急制動だ。
「ああ、そんなに怯えないで。何も取って食おうというわけではありません。ささやかなお駄賃をいただくだけですよ」
唖然とする明に向かって悪戯っぽい笑みを見せる少女。彼女の指が明の額にぴたりと触れる。
次の瞬間、少女は消えていた。
明は驚き、しかし慌てず周囲の音を探る。
背後に心音。望美のものではない。
「そこか!」
少女は柵の向こう、屋上の崖淵にその身を晒していた。
つまんだ指の先には、薄緑の勾玉が一つ。
明は反射的に内ポケットを探るが、アメノウズメの勾玉は見つからない。ズボンのポケットに入れていたイワツチビコの分も。
「いつの間に……!?」
「さあ、どうなんでしょう?」
少女は白々しく首を傾げると、屋上からためらいもなく飛び降りた。最後に優しげな一言を添えて。
「それではどうかお元気で。……またお会いしましょうね、明さん」
「待っ……!」
そして少女は見えなくなった。
明は柵の傍まで駆け寄ると、真下の地面をおそるおそる覗き見る。
そこにはちょうど着地を終える少女の姿があった。
路上に血肉の花が咲くこともなく、落下の衝撃がアスファルトに激音を響かせることもない。
スローモーションのような動きでゆっくりと舞い降り、たっぷり数秒使って両足を接地させる。
少女はこちらを見上げてひらひらと手を振った後、敷地の外に去っていった。
何が何だか分からない、というのが正直な感想だった。
とりあえず確かなことは、例の勾玉が奪われてしまったということだけだ。
「まったく、次から次へとロクでもない連中が出てくるな」
明は盛大にため息をついて、ふと望美の方を見た。
饒舌な性格ではないとはいえ、彼女が一切のリアクションを見せないのは珍しい。
何か気になることでもあったのだろうかと思い、彼女の顔をうかがってみる。
しかし望美は、明以上に難しそうな顔で目をぱちくりさせていた。
「……どうした、望美?」
不審に思った明が尋ねると、望美は少し言いにくそうに、
「さっきの女の子、いつの間にいなくなったの?」
「……なんだと?」
今度は明が目をぱちくりさせる番だった。




