間章 とある刑事の憂鬱
「また行方不明者か」
雑然としたオフィスの片隅で、初老の男がため息を漏らしていた。
刑事課所属、毘比野健作。勤続二十数年のベテラン刑事だ。
毘比野は椅子の背もたれに体重を預けると、クリップ留めされた書類の束をつまみ上げる。
表紙を飾っているのは、受理されたばかりの捜索願。
基本的には刑事課の領分ではないが、この町で起きた失踪事件には一通り目を通しておくことにしているのだ。
捜索対象の氏名は小畑譲二。市内の建築現場に勤めているアルバイトだ。
失踪したのは五日ほど前。同居人の話によると、小畑はコンビニに酒を買いに行った後、そのまま行方が分からなくなったのだという。
ごく普通に生活していた人間が、ある日突然いなくなる。
不可解な話だが、長く警官をやっていると耳にタコができるほど聞くような話でもある。
そう、ある一点を除いては。
「……こいつもか」
乾いた指で書類をめくっていくと、下の方からコンビニの被害届が顔を出した。
添付された写真には、会計の途中で商品を持ち去る小畑の姿が映っていた。
ただの万引きにしてはあまりにも大胆不敵な行動だ。これ見よがしに商品を掲げ、何恥じることなく店を出ていく様子が記録されている。
おかしなことに、その場にいた店員は小畑を取り押さえようとはしなかった。
そのうえ警察に連絡が来たのは数十分後。小畑が行方をくらませた後だ。
なぜすぐに通報しなかったのか? 担当の刑事は何度もそう質問したが、店員から満足のいく答えを得ることはできなかった。
「ったく、これで何件目だ? さすがに見過ごせんぞ」
橿原市で失踪する者の多くが、姿を消す直前に妙な騒ぎを引き起こしている──毘比野がそれに気付いたのは五年ほど前だった。
曰く、車に轢かれたのに無傷だった。
曰く、口から炎を吐き出した。
曰く、百メートルを五秒で走っていた。
三流ゴシップ誌ですら取り上げないような馬鹿馬鹿しい噂だが、それが十も二十も積み重なってくれば話は別だ。
……ひょっとすると、一連の失踪には共通した原因が隠されているのではないか?
そう感じた毘比野は個人的に捜査を開始した。
だが、五年が経過した今も事件の尻尾を掴むことはできず、そして犠牲者──本当にそんなものがいればだが──は増え続けている。
「なあ、教えてくれよ。お前さんは……お前さんたちは、いったいぜんたい何に巻き込まれちまったんだ?」
問いかけの相手は小畑だけではない。これまで行方不明になった数多の人々に向けたものだ。
この話は当然上司にも報告しているが、上司の反応は芳しくない。したがって、この件に人員が割かれることも無いだろう。
実際、毘比野自身も半信半疑なのだ。単なる偶然で片付けられても仕方の無いような、薄弱な推理であることは承知していた。
しかしそれでも"気になる"という思いは心の底に堆積し続けている。
奥歯の隙間に食べかすが挟まった時のようなむず痒さを感じながら、溜め込んだ息を吐いた。
吐いて、吐いて、吐ききって、口寂しさにタバコを取り出したところで「全館禁煙」の張り紙に目をやり、金魚のように口をパクつかせた。
「それで、こっちの事件も手詰まり、と。どこもかしこもシケてやがる」
捜索願をデスクの端に押しやると、書類立てから分厚い資料を引き抜いた。
資料の表には「高臣学園集団昏倒事件」と書かれている。
こちらは自分が正式に担当している事件だが、はっきり言って収穫は皆無に等しい。
原因、経緯共に一切不明。目撃者も物証もゼロ。被害者たちの検査結果も異常無し。
ここまで来ると、何を何から調べればいいのかすら分からない。本庁から出てきたお偉方もやる気を無くしつつある。
「せめて怪しい奴の目撃情報でもあれば良かったんだがなぁ……」
無いものねだりをしながら、資料をパラパラ漫画のようにめくっていく。
「……ん?」
そうしてページが後半に差し掛かろうとした時、毘比野の指がぴたりと止まった。
指先を唾液で湿らせ、数ページ前の関係者名簿を開く。
そして、ある生徒の欄に目をやった。
「夜渚明……夜渚?」
口をすぼめてしばらく思案。
ややあってから、慌てて引き出しに手を突っ込んだ。
ファイルの海を乱暴にかき回し、そのうちの一つを掴み取る。ファイルの背表紙に記された文字は、
「夜渚鳴衣誘拐事件……!」
七年前にこの町を騒がせた大事件だ。
市内在住の少女「夜渚鳴衣」が耳成山の山中で不審者と遭遇。鋭利な刃物によって切りつけられた後、いずこかへ連れ去られた。
夜渚明はその事件の唯一の目撃者であり、夜渚鳴衣の兄だ。
「おいおい……どうしてあの夜渚明が高臣学園にいるんだ?」
毘比野の記憶が正しければ、夜渚家は事件発生から半年後に奈良県を離れていたはずだ。彼らが地元に帰ってきたという話も聞いたことが無い。
「息子一人で里帰りか? 何のために?」
想像もつかない。だが、同時に言いようのない引っかかりを感じていた。
聴取を担当した捜査員によると、夜渚明の証言は怪奇極まるものだったという。
白い霧、青い光、巨人のように大きな男。支離滅裂な説明によって現場は大いに混乱させられた。
当時は子供特有の誇張表現と見なされていたが、今思い返してみると……。
「……確かに、似てるな」
普通ではあり得ない現象の後に、一人の人間が消失する。
一連の流れは、毘比野が追いかけている失踪事件とも符合するものだ。
そして現在、夜渚明の在籍する学園で、生徒数百名が一斉に意識を失うという"あり得ない現象"が起きている。
「……………………」
全ては自分の思い過ごしかもしれない。疲弊した意識が垣間見せる、蜃気楼のような妄想なのかもしれない。
だが、思い過ごしであるという確証が得られるまでは、あらゆる可能性を探ってみるべきだ。
それが毘比野の人生哲学であり、刑事としての矜持だった。
「いや、まさかな」
と言いつつ、体は既に動いていた。
旧型の携帯電話を取り出すと、おぼつかない手つきでダイヤルを叩く。
発信先は高臣学園だった。




