第十七話 気付き
耳成山の南口付近には、大きなため池を臨む広場がある。
アスレチックや滑り台、丸太組みの休憩所等を備えたオーソドックスな市民公園だ。
日没近くということもあってか、園内に人気は無い。
池のほとりに響くのは、明と猛が砂地を踏みしめる音だけだ。
「このあたりで大丈夫だよ、明。あとは自分一人で帰れるから」
「悪いが黒鉄に脅迫されていてな。お前をちゃんと自宅まで送り届けないと、何やらとんでもないことになってしまうらしい」
「あはは、そりゃご愁傷さまだ」
のんきそうに笑う猛。明は嘆息して、
「笑い事なものか。道端で突然気を失ったから心配したんだぞ」
無論嘘だが、表向きはそういうことになっている。
猛には何も知らせず、何も関わらせない。これは、黒鉄のたっての希望でもあった。
「あいつ、俺が狙われてるって知ったら絶対首突っ込んでくると思うんだよ。その、うまく言えねえけどさ。そういうのはやっぱ、やべえだろ?」
そう言って頭を下げる黒鉄は、かつてないほどに真剣だった。
その後、明は望美と別れ、名残惜しそうな顔の黒鉄とも別れて今に至る。
「もう一度聞くが、体に不調があるわけでは無いんだな? なんなら今から救急車を呼んでもいいんだぞ」
「大丈夫だって。たぶん日頃の疲れが出たんだと思う。最近はいくら寝ても眠気が取れなくて」
「勉強のし過ぎだな。勤勉なのは美徳だが、猛はほどほどに息を抜くことを覚えた方がいい」
「リョウにも同じことを言われたよ。お前は年中ハムスターかよって」
「ナマケモノがそれを言うのは皮肉だな。お前と黒鉄、足して二で割るくらいがちょうどいい」
「明はうまいこと言うね。今度、リョウの爪垢を煎じておくよ」
猛はまた笑って、心持ち足を速めた。
それを見て明は減速。自然と猛の背中を拝む形になる。
猛の足取りは堅調そのものだった。背筋を真っ直ぐ伸ばしたお手本のような姿勢だ。
明は聴覚を研ぎ澄ませ、彼の鼓動に耳を傾ける。
心音は安定していた。
(現時点では、な)
夕日に背を向け、無言で歩く。
長く伸びる影が、前を行く猛の足にまとわりついていた。
……と、公園のちょうど真ん中まで来て、不意に明の足が止まる。
そしてそのまま、世間話でもするような調子で口を開いた。
「なあ、どうして地下だと思ったんだ?」
「え?」
立ち止まる猛。
「耳成山でのことだ。黒鉄は『遺跡探検』としか言わなかったのに、お前は『地下には何があった?』と尋ねてきた」
「……そうだっけ?」
「なぜ地下遺跡だと思った? 住居の跡という可能性だってあるじゃないか」
「うーん、特に何か意識して言ったんじゃないからなー。なんとなくのイメージでそう言っちゃったのかも」
振り向くことなく答え、すぐさま歩き出そうとする。
その背中に二つ目の質問が刺さった。
「お前は、帰宅した後に昏倒事件を知ったと言っていたな」
「そうだけど?」
「それは妙だな。俺の記憶が確かなら、あの日お前は書庫の整理を手伝うと言っていたはずだ」
猛の心音が、わずかに乱れた。
「昇降口で俺たちと話した後、お前は書庫に向かった。それから間もなく昏倒事件が起きた。……いつの間に帰宅していたんだ?」
つま先で地面を擦り、砂利を鳴らす。視線は猛を捉えたままだ。
直後、猛が機敏に向き直った。
「ああ、そのこと? あの日はぼく以外にもたくさん助っ人が駆けつけてくれたから、あっという間に作業が終わっちゃったんだ。もう少し遅れてたら、ぼくも巻き込まれてたかもね」
「そうか。それは幸運だったな」
何の感慨も無く言って、わざとらしいうなずきを返した。
猛の表情は変わらない。それを見据える明の顔も。
ただ、次に来る言葉はやや鋭さを増していた。
「なぜ、気絶したふりをしていた?」
心音が大きく乱れた。
「えっと……ごめん。何のこと?」
猛は腕を軽く広げて、笑う。
やけに大げさなリアクションは、頬の引きつりをごまかしているようにも見えた。
「しらばっくれるな。お前の呼吸は不自然過ぎた。気絶している者のそれとはまるで違う」
「気のせいじゃないの? っていうかさ、きみは気を失ってる人の呼吸を聞き比べたことなんて無いでしょ?」
呆れたように口を歪める猛。だが、明は事もなげに、
「あるぞ。つい先週のことだ」
「……あー、なるほどね」
猛は大きく息を吐くと、右手で顔を覆った。そして沈黙。
明も動きを止めて、じっと猛の答えを待つ。
過ぎゆく時間。
静寂の中、遠くから踏切の警報音が聞こえた。
ざわめくような電車の通過音が抜けていく。その音に驚いたのか、一羽のカラスが街灯の上から飛び立った。
電車もカラスもどこかに消えて、公園に静けさが戻る。そんな時だった。
「……ごめん、ぼく、嘘ついてた」
再び猛が顔を見せた。苦渋と悔恨をありありと浮かべ、その瞳は伏し目がちだ。
「途中からずっと起きてたんだ。だけど、目の前で起こってることが理解できなくて、怖くて……だから、見て見ぬふりをしようとした」
もう一度「ごめん」と言って、頭を下げた。
明は一瞬の間を置いて、
「あまり気に病むな。いきなり超能力バトルが始まったら、たいていの者はそうなるさ」
「ありがとう。でもやっぱり、情けないよね」
顔を上げた猛は、ばつの悪そうな顔で鼻を拭っていた。
しかしすぐに気を取り直すと、決意を込めた眼差しを明に向ける。
「安心して。今日のことは誰にも言わないし、きみたちの事情を詮索するつもりも無いから」
「物分かりが良くて助かる」
「身の程を弁えてるだけだよ。人にはそれぞれの役割ってものがあるからね」
首を傾げて「だろ?」と尋ねる。明は社交辞令のように相槌を打った。
「じゃあ、この話はこれでおしまい。ぼくは何も手助けしてあげられないけど、きみや良太郎の無事を陰ながら祈ってるよ」
屈託の無い笑顔が、殺伐とした空気を解きほぐしていく。
明も応じて笑みを作る。もう、疑念は無くなっていた。
「ところで、もう一つだけ聞いてもいいか?」
「ん? なんだい?」
「お前は誰だ」
疑念"は"消えた。あるのは絶対の確信だけだ。
猛の心音はいたって平静。さざ波程度の揺らぎすら感じ取れない。
だが、明は迷わず飛び退いていた。
その動きは予測によるものではなく、本能的なもの。
明の生存本能、いわば野生の勘とでも言うべきものが、最大音量でアラートを鳴らしていた。
「……っ!」
ガラスのように透き通った何かが見え、刹那の後に地面が吹き飛んだ。
破壊を成したのは、水だ。
直上から落ちてきた水柱が、その質量と密度でもって砂地を穿ったのだ。
「あーあ、これだから荒神って嫌いなんだ。弱っちいくせに鬱陶しい奴ばーっかり。ホントやんなっちゃうよね」
聞き慣れた声が、聞き慣れぬ調子で響く。それこそが違和感の正体だった。
そして明は見る。
先ほどの水柱が、飛び散ることなくその形を維持しているのを。
まるで、見えないチューブの中に水が詰まっているかのようだ。
猛が指を鳴らすと、水柱は鎌首をもたげる。柱の根元はため池に繋がっており、大地を削った先端は龍の頭に似ていた。
「水の、龍……」
その威容を仰ぎながら、明は猛を……猛の皮を被った何者かを見やる。
後方のため池では、二体目三体目の水龍が次々と産声をあげていた。




