第十六話 一件不落着
屋上に一陣の風が吹く。
霧のカーテンはその身を大きく翻した後、秋空の彼方に溶けていった。
明は晴れた空を見上げ、眩しそうに手をかざす。明るさに目を慣らしてから、視線を床に落とした。
そこには黒鉄が、ふてくされたように座り込んでいた。
「ご苦労だった」
「相っっっ変わらず偉そうだなてめえは。いい加減シメんぞ?」
「ねぎらっているのだから、素直に受け取ればいいだろう。それで、気は済んだか?」
「……別に、キレてたわけじゃねえっての。猛は生きてたんだから、それでいいんだよ」
「そうか」
明は床に膝をつき、黒鉄の前に落ちているものを拾い上げた。
鋳造されたばかりの石刀……の、残骸だ。ほとんどの部分は、イワツチビコの死亡と共に溶けてしまった。
「で、またこれが残るのか」
断面を叩くと、緑の玉が転がり落ちた。アメノウズメの時と同じ、勾玉もどきだ。
「あん? 何だそりゃ?」
「知らん。だが、現神は皆この玉を遺していく」
「ふーん」
黒鉄は興味無さげに言ってから、どっこいせと腰を上げた。
「まっ、どうでもいいだろ。向かって来たらブッ潰す。それだけだ」
「頭が軽くて結構なことだ」
「おうおう、年中虫歯みてえな面したアホが何か言ってやがるぜ」
顔を近づけ、火花を散らす二人。
そんな時、明の背中が控えめに叩かれた。
振り向くと、望美が困ったような顔でこちらを見つめていた。
「止めるな望美。こいつにはもう一度実力の差というものを教えてやらねば」
拳を握って強弁する明。が、望美はそれに取り合わず、
「うん。それはもうどうでもいいっていうか、いちいち反応するのに疲れたっていうか、この際二人の好きにしてくれたらいいんだけど」
「けど、何だ?」
「さっきから建物がミシミシ鳴ってる」
「……………………」
明の呼吸が止まり、表情が凍り付く。黒鉄もそれに倣って停止。
時間の止まった屋上に、打ち下ろすような強風が届く。
明が感じ取ったのは、波のような揺れ。そして、気持ちの悪い浮遊感だ。
揺れに合わせて聞こえる音は、酷使された遊具の軋みに似ている。
「たぶん、戦闘で建物が傷ついたせいだと思う。また強い風が吹いたら、まずいかも」
「よし、帰るか」
「俺もそうすっかな!」
満場一致でそういうことになった。
明は猛を担ぎ直すと、屋内目指して一歩を進み、
「ん?」
嫌な気配を感じる。
視線を右に滑らせると、屋上の隅に黒い線が見えた。
線はギザギザに蛇行しながら床一面に広がっていく。何かが割れるような音を伴って。
亀裂だった。
「だから言ったのに……」
「後悔先に立たずだ! それより急げ!」
たちまち大きな振動が響き、終わりの始まりを伝えてきた。
疲労を無視して全力で走る。が、そんな彼らをあざ笑うように崩壊は進む。
どうする? エレベーターでは間に合わない。避難器具は落とされた。徒歩はもっと無茶だ。ならば非常階段……は、鉄骨竜の素材になっていた。
(詰んだ、か?)
柄にも無くそう思い始めた時、視界の端に不思議なきらめきが見えた。
何と言い表すのも難しいが、あえて名前を付けるのであれば、光の球だ。
そこにある空間が薄く光を帯びて、球の形を作っているのだ。
「その光に飛び込んで!」
続いて、明の耳は少女の声を聞いた。
どこかで聞いたような声だったが、あいにくそんなことを考えている場合では無い。
罠か、助けか。
瞬時に思考し、いちかばちかに賭けることにした。
「よく分からんが、現状では頼る他ないか……!」
「罠じゃなければいいんだけど……」
「そんときゃ全部転校生のせいだかんな!」
三人は我先にと光の中に体を投げ出した。
「ぐっ……!」
途端、目が回るような感覚に襲われた。
明滅し、暗転する世界。
よろめきつつも踏ん張って、猛を取り落とさぬよう注意する。
再び世界に色が戻ってきた時、立体駐車場は倒壊していた。
巻き起こる粉塵。クラクションの音。行き交う人々は足を止め、一様に驚きの声を上げる。
その様子を、明は遠く離れた路上から眺めていた。
「……いつの間に」
自分の身に起きた現象が信じられない。
確かめるように頬をつねり、ついでに黒鉄の頬もつねり、口直しに望美の頬に触れた。
「……夜渚くん、流れるようにセクハラするんだね。ちょっとビックリしちゃった」
「すまない、気が動転していた。すべすべだった」
「今もまだ動転してるんじゃないかな……」
「かもしれん」
やけに深刻そうな顔をする明。望美はわずかに笑って目尻を下げると、
「とにかく、次からは気を付けてね。今回は許すけど、胸とかお尻だと庇い切れないから」
「胸尻以外はセーフか?」
「セーフラインを探ってる時点でアウトだと思う」
望美は「それより」と前置きして、
「さっきの光は何だったのかな。屋上からここまで、私たちを運んでくれたみたいだけど」
「何者かの異能、だろうな。荒神か、現神か、それ以外の何かか……」
「味方って思っても、いいのかな?」
「そう思いたいが……難しいな。世の中、単純に敵味方では分けられないこともある」
「いちいちめんどくせえことで悩んでんじゃねえよ。助かったんだから一件落着でいいじゃねえか」
黒鉄の言葉に、明はしばし口を閉じる。
それから、誰にも聞こえないような小声でつぶやいた。
「一件落着、か。そうであってほしいものだ」
西空に輝く夕日は、奈良盆地を囲む稜線から少し高い位置にある。
一日はまだ終わっていなかった。




